版画家・棟方志功(1903-1975)と言えば、トレードマークの丸眼鏡で“無我夢中”に制作を行う姿を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。棟方が生誕120年となることを記念し、幅広い制作活動の全貌を紹介する過去最大規模の展覧会が、東京国立近代美術館で開催中です。
東京国立近代美術館「生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ」会場入口
1903年に青森に生まれた棟方は、雑誌『白樺』に掲載されていたゴッホの向日葵の作品に感銘を受け、洋画家となることを志して上京。木版画の世界に惹かれ、活動の中心を油彩から版画に移しながら宗教人物像や文学をテーマとした作品を発表していきます。
《善知鳥版画巻(巻一・巻三)》1938年 棟方志功記念館
壁面の高さを最大限まで使った作品を制作している棟方。白黒の面と線のみで構成された《門舞男女神人頌》は、古事記に登場する日本武尊以前の神々16名を、敬愛する恩人に重ね合わせた巨大な作品です。
隣に並んでいるのは、同じく高さ3メートルもの《幾利壽當頌耶蘇十二使徒屏風》。第9回 日展に出品されたこの作品は、棟方が戦後に題材にしたキリスト教の十二使徒をモチーフにしたもので、今回の展覧会で約60年ぶりの展示となりました。
(左から)《門舞男女神人頌》1941年 個人蔵 / 《幾利壽當頌耶蘇十二使徒屏風》1953年 五島美術館
柳宗悦や濱田庄司に見いだされ、制作においても民藝的な要素が織り込まれていた棟方。終戦間際から疎開をした富山県南西部では、信仰心が篤い土地柄と自然豊かな暮らしから民藝思想をより高めます。
筆による絵を“倭画”と呼んでいた棟方。版木が入手困難だった戦中戦後には、寺院の大きな襖絵制作や書の揮毫といった筆の仕事で腕を振います。
会場では、光徳寺の外で公開されることがほとんどなかった倭画の名作を展示。堂々とした松の大樹を墨の飛沫やダイナミックな筆致で表した《華厳松》は、通常非公開の裏面とあわせてご覧いただけます。
《華厳松》1944年 躅飛山光徳寺
《稲電・牡丹・芍薬図》1944年 躅飛山光徳寺 ※《華厳松》の裏面
戦後復興を経て、日本に到来した出版ブーム。ベストセラーとなった谷崎潤一郎の『鍵』をはじめ、棟方の挿絵は人気を博し、国内的な知名度を上げます。
1956年にはヴェネツィア・ビエンナーレでの国際版画大賞を受賞するなど、国際的にも評価を上げ「世界のムナカタ」と呼ばれるようになります。
(左から)《谷崎歌々板画柵(左隻)》1956年 棟方志功記念館 / 《追開心経の柵》1957年 日本民藝館
国内では公共建築の建設ラッシュが起きた1960年代。棟方は、谷口吉郎設計による青山県新庁舎をはじめ、倉敷国際ホテルのロビーや大阪万博の日本民芸館の壁面の作品を制作します。
《花矢の柵》1961年 青森県立美術館
この頃から故郷・青森をテーマに作品制作が本格化した棟方。恐山のイタコやねぶた、凧絵など祭礼や民間信仰にまつわる精神風土を主題として制作を取り組むようになります。
第3章「東京/青森の国際人」会場風景
一方、頼まれれば気軽にデザインの仕事も引き受けていたため、全国津々浦々に棟方が手掛けた包装紙や商品パッケージも残っています。その土地の風土を感じさせる棟方のデザインは、地方性の強い商品と相性もよく、和菓子の包み紙や切手などにも展開されました。
第3章「東京/青森の国際人」会場風景
生涯にわたって膨大な自画像を残し、何冊にもわたり自叙伝を出版していた棟方。最後の展示スペースでは自画像のほか、棟方を象徴とする眼鏡や仕事道具の彫刻刀が並び、現在まで生き続けている“ムナカタ・イメージ”を感じることができます。
(左から)《自画像》1964年 公益財団法人岡田文化財団パラミタミュージアム / 《雑華山房主人像図》1942年 青森県立美術館
特設ショップでは、棟方が包装紙のデザインをおこなった亀井堂の瓦せんべいや筆ペンやはんこ、眼鏡ケースなど展覧会ならではのグッズが並んでいます。
11月11日(土)には、棟方志功はいかにして「世界のムナカタ」になっていったのかを明かす、スライド・トークも開催されます。整理券は、当日の午前10時からの配布です(定員 140名、先着順)。
[ 取材・撮影・文:坂入 美彩子 2023年10月5日 ]