20世紀初頭、パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックによって生み出されたキュビスム。ルネサンス以来の絵画の常識から画家たちを解放し、それ以後の芸術の多様な展開に決定的な影響を及ぼしました。
パリのポンピドゥーセンターからピカソ12点、ブラック15点をはじめとするキュビスムの重要作品、約140点が来日。日本では約50年ぶりとなる本格的なキュビスム展が、国立西洋美術館で開催中です。
「キュビスム展ー美の革命」展示風景、国立西洋美術館、2023−2024年
キュビスムの誕生に重要な役割を果たしたのが、ポール・セザンヌ、ポール・ゴーガン、そしてアンリ・ルソーです。
先駆者といえる彼らの創作や、植民地であるアフリカやオセアニアからもたらされた多様な造形物が、それまでの西洋美術とは異なる新しい表現に繋がっていきました。
「キュビスム展ー美の革命」展示風景、国立西洋美術館、2023−2024年
ピカソは1907年夏にパリのトロカデロ民族誌博物館を訪問。アフリカやオセアニアの造形物に衝撃を受け、《アヴィニョンの娘たち》(本展不出品)を完成させました。
作品を見たブラックは大いに驚き「まるで麻くずを食べるか、石油を飲んで火を吹けと言っているようだ!」と語ったと伝わります。
ブラックはピカソへの応答として《大きな裸婦》を描いています。
「キュビスム展ー美の革命」展示風景、国立西洋美術館、2023−2024年
キュビスムの盟友であるブラックとピカソ。両者は1907年に知り合い、1908年の冬には毎日のようにお互いのアトリエを訪ねるほど交流を深めました。
当時の二人の関係について、ブラックは「私たちはザイルで結ばれた登山者のようでした」と回想しています。
「キュビスム展ー美の革命」展示風景、国立西洋美術館、2023−2024年
ブラックとピカソが創始したキュビスムは、若い芸術家たちのあいだに広がり、多くの追随者を生みました。
キュビスムを大いに発展させたのが、フェルナン・レジェとフアン・グリスです。レジェはセザンヌの大回顧展を見てから、構築的な作品に。グリスも同様にセザンヌを学ぶことから進めていきました。
「キュビスム展ー美の革命」展示風景、国立西洋美術館、2023−2024年
展覧会のメインビジュアルが、幅4メートルにもおよぶロベール・ドローネー《パリ市》です。ポンピドゥーセンターを象徴する大作のひとつで、本展で初来日です。
ロベール・ドローネーはピカソやブラックとは異なり、パリの公的な展覧会でキュビスム旋風を巻き起こした「サロン・キュビスト」の一員です。
ロベール・ドローネー《パリ市》1910-1912年/ポンピドゥーセンター所蔵
モンパルナスの集合アトリエ「ラ・リュッシュ(蜂の巣)」には、フランス国外から来た若く貧しい芸術家たちが集まり、キュビスムを吸収しながら、それぞれが前衛的な表現を模索していきました。
当時ロシア帝国領であったベラルーシから来たマルク・シャガール、ルーマニア出身のコンスタンティン・ブランクーシ、そしてイタリア人のアメデオ・モディリアーニらが、ラ・リュッシュに集っています。
「キュビスム展ー美の革命」展示風景、国立西洋美術館、2023−2024年
キュビスムと第一次世界大戦の関係は、あまり知られていないかもしれません。フランスとドイツの戦争により、キュビスムはナショナリズム的な政治闘争の対象になりました。
キュビスムの芸術家たちの作品がドイツ人の画商によって扱われていたためキュビスムはドイツと結び付けられ、大戦が始まるとキュビスムはドイツによる文化侵略だと非難されることもありました。
「キュビスム展ー美の革命」展示風景、国立西洋美術館、2023−2024年
第一次大戦が終わると、キュビスムは再び最先端の芸術表現とみなされますが、より平面で簡潔な構成へと進む動きも出てきます。
1918年末、アメデ・オザンファンとシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ (ル・コルビュジエの本名)は、キュビスムを乗り越え、機械文明の進歩に対応した新たな芸術運動として「ピュリスム(純粋主義)」を宣言します。
ジャンヌレ(ル・コルビュジエ)は「機械の美学」を建築にも応用しました。いうまでもなく、本展の会場である国立西洋美術館を設計したのもル・コルビュジエです。
「キュビスム展ー美の革命」展示風景、国立西洋美術館、2023−2024年
会場は14章構成で、キュビスムの源泉からキュビスム以降まで網羅的に紹介。作家は約40人、約140作品という豪華版です。会場は多くの作品が撮影可能です。
国立西洋美術館の後は、京都市京セラ美術館に巡回します(2024年3月20日~7月7日)。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2023年10月2日 ]