社会的・政治的なテーマを扱った作品や、『愛のコリーダ』『御法度』などで大胆な性愛表現に挑んだ作品でも知られる映画監督・大島渚(1932-2013)。今年で没後10年を迎えました。
映画評論家の樋口尚文さんによる著書『大島渚全映画秘蔵資料集成』の構成をもとに、大島渚の映像世界と、その創作の舞台裏を紹介する展覧会が、国立映画アーカイブで開催中です。
国立映画アーカイブ「没後10年 映画監督 大島渚」会場
展覧会は時代順で、第1章「出生から学生時代、そして撮影所へ」から始まります。
大島は京都大学法学部卒業。学生時代は演劇と政治活動に熱中し、就職活動に苦労する中でただ一つ採用されたのが、約2千人の中から10名程しか採用されない松竹大船撮影所の助監督試験でした。
厳しい徒弟制度の助監督修業の末、大島は頭角を現していきました。
第1章「出生から学生時代、そして撮影所へ」
第2章は「ヌーヴェル・ヴァーグの旗手として」。監督として長篇デビュー2作目の『青春残酷物語』(1960年)で、若者の社会への抵抗と挫折を鮮烈に描いた大島。ジャーナリズムから「松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」と呼ばれ、評価を確立していきます。
この章では大島とともに歩んだ、妻で女優の小山明子も紹介されています。小山は映画『結婚白書』(1955年)で助監督時代の大島と仕事を共にし、意気投合。ともに創造社を立ち上げ、看板女優として活躍する一方、多数のテレビドラマに出演して、大島の経済的基盤を支えました。
第2章「ヌーヴェル・ヴァーグ」の旗手として
第3章は「松竹退社と模索の季節」。安保闘争をテーマにした『日本の夜と霧』(1960年)が公開4日で一方的に打ち切りになると、大島は松竹との訣別を決意します。
ただ、すでに大島は映画作りの同志たちと自身の会社である創造社を興していましたが、映画の企画はなかなか成立しませんでした。
3年の忍従の後『悦楽』(1965年)で、創造社は本格的に旗揚げすることとなりますが、性愛をテーマにした同作は映倫から問題視され、大島にとって不本意な結果になりました。
第3章「松竹退社と模索の季節」
第4章は「独立プロ・創造社の挑戦」。創造社で大島は、低予算映画ながらも独創性に富んださまざまな作品を製作。凶悪事件をもとにした短編小説を映画化した『白昼の通り魔』(1966年)は、大島の復活を強く印象づけました。
大島は俳優でない人物も、積極的に主演に起用しました。『新宿泥棒日記』(1967年)は、デザイナーの横尾忠則が主演し、ポスターも手がけています。
第4章「独立プロ・創造社の挑戦」より (左)『新宿泥棒日記』(1967年)ポスター
第5章は「創造社の解散と国際的活躍」。1973年、大島は突如として創造社を解散。国際的展開を見据え、新たなスタイルの映画製作を進めます。
初の海外との合作が『愛のコリーダ』(1976年)です。「阿部定事件」を題材にした、劇場用映画としては本邦初のハードコア・ポルノです。シナリオ本が猥褻物として摘発された「愛のコリーダ裁判」も話題になりました。
第5章「創造社の解散と国際的活躍」より 『愛のコリーダ』の関連資料展示
大島渚の作品で最も知られているのが『戦場のメリークリスマス』(1983年)です。デヴィッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけしと異色のキャスティングで世界を驚かせ、商業的にも成功。大島は日本屈指の国際派映画作家へと飛躍していきました。
第5章「創造社の解散と国際的活躍」より 『戦場のメリークリスマス』の関連資料展示
第6章は「大島映画の美的参謀、戸田重昌」。大島が全幅の信頼を寄せ、創造の現場を任せ続けたのが美術監督の戸田重昌です。温室のような『戦場のメリークリスマス』の捕虜収容所など、奇抜なアイデアを違和感なく画面内に溶け込ませ、大島の映画哲学を最大限に具現化できる、唯一無二の存在でした。
戸田は仕事の資料を一切残しませんでしたが、展覧会では幸運にも大島の手元で保管されていた資料を公開。本展で初めて、その独創性に光があたります。
第6章「大島映画の美的参謀、戸田重昌」
第7章は「幻の企画と晩年」。大島が遺した資料からは、実現しなかった企画も数多く見つかっています。1979年に検討された実録やくざ映画『日本の黒幕(フィクサー)』、坂本龍一主演で企画されながらも1992年に頓挫した『ハリウッド・ゼン』などの資料が並びます。
大島は1996年に脳出血を患いますが、カムバックして『御法度』(1999年)を完成させます。そして、これが大島の遺作となりました。
第7章「幻の企画と晩年」
展覧会では大島監督作品の劇場予告篇集のほか『愛のコリーダ』『戦場のメリークリスマス』『御法度』など、大島映画を彩った音楽も聴くことができます。会場全体で名匠・大島渚の世界に浸ってください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2023年4月7日 ]