1930年代の日本で広がりを見せていた前衛写真。瀧口修造(詩人・美術評論家 1903-79)と阿部展也(画家 1913-71)は、1938年に「前衛写真協会」を設立。両者から大きな影響を受けたのが大辻清司(写真家 1923-2001)。大辻の愛弟子が牛腸茂雄(写真家 1946-1983)です。
2023年は、瀧口の生誕120年、阿部の生誕110年、大辻の生誕100年、そして牛腸の没後40年という節目の年です。4人の作家を通して、前衛写真の興隆と変遷の歩みを紹介する展覧会が、千葉市美術館で開催中です。
千葉市美術館「『前衛』写真の精神:なんでもないものの変容」会場入口
展覧会は第1章「1930-40年代 瀧口修造と阿部展也 ─ 前衛写真の台頭と衰退」から。1930年代、日本ではシュルレアリスムや抽象主義から影響を受けた写真表現が顕著になり、「前衛写真」と呼ばれました。
前衛美術を牽引する批評家だった瀧口修造は、シュルレアリスム的な写真はストレート・フォトグラフィでも可能だと主張。根拠としてパリの写真家、ウジェーヌ・アジェを紹介しました。
アジェを起点にした瀧口の思索は、以後、日本の現代美術の流れにも大きな影響を与えます。
(左から)ウジェーヌ・アジェ《塗装工》1899-1900年 東京都写真美術館 / ウジェーヌ・アジェ《1等の霊柩車》1910年 東京都写真美術館[展示期間:ともに4/8~4/30]
当時、まだ20代の新進画家だった阿部芳文(展也)は、1936~37年にアメーバ状の流動体による作品を発表。瀧口はこれを高く評価し、後に両者は詩画集『妖精の距離』を発行しました。
前衛写真協会を結成した瀧口は、技巧を優先する超現実主義の写真に警鐘を鳴らします。阿部は「日常的な何でも無い様子をした中に有る抒情や夢及びオブジェ的な不可思議と去ったものを主題」にした作品を発表しました。
ただ、1941年の太平洋戦争の勃発により、各地に広がった前衛写真の活動は、わずか数年で表舞台から姿を消すこととなります。
(左)画:阿部芳文(展也)、詩:瀧口修造 『妖精の距離』より「反應」 1937年 新潟市美術館[展示期間:4/8~4/30]
第2章は「1950-70年代 大辻清司 ─ 前衛写真の復活と転調」。戦後になると、前衛写真の流れは大辻清司に受け継がれていきます。大辻は1940年に近所の書店で見た『フォトタイムス』に衝撃を受けて、写真家の道へ。特に強く惹かれたのが、瀧口修造による写真論でした。
1949年の第9回美術文化協会展に初出品。写真部門を指導していた阿部は、大辻の作品に賛辞を贈りました。《美術家の肖像》は、阿部の演出を大辻が撮影した競作です。
(右)演出:阿部展也、撮影:大辻清司《美術家の肖像》1950年 千葉市美術館[展示期間:4/8~4/30]
大辻は53年に瀧口修造を理論的支柱とする、若手芸術家たちの領域横断的なグループ「実験工房」に参加。瀧口や阿部が支援した「グラフィック集団」の設立にも携わるなど、瀧口・阿部と親しく交流していきました。
58年から桑沢デザイン研究所で写真の授業を担当するようになった大辻。その桑沢に入学してきたのが、後に大辻が「もしこれを育てないで放って置くならば、教師の犯罪行為である」とまで評した、牛腸茂雄でした。
杉村勇造、永井敏男(著)、大辻清司(写真)『文具四宝』1980年
第3章は「1960-80年代 牛腸茂雄 ─ 前衛写真のゆくえ」。66年に柔沢に入学した牛腸は、当初はグラフィックデザインを志していたものの、大辻の強い薦めもあり、写真家の道に進みはじめます。
卒業後、桑沢の同級だった関口正夫との共著で『日々』を出版。大辻はその序文を書いています。
牛腸茂雄《日々》1967~70年 新潟市美術館[展示期間:4/8~4/30]
81年の『見慣れた街の中で』は、牛腸の最後の写真集です。東京や横浜を中心にした都会の風景を、さまざまなアングルで撮影。めまぐるしい都市の様相を切り取りました。
幼い頃に患った胸椎カリエスが原因で、身体的なハンデキャップがあった牛腸。闘病しながら精力的に活動を続けましたが、1983年に死去。37歳の若さでした。
牛腸茂雄《見慣れた街の中で》1978~81年 新潟市美術館[展示期間:4/8~4/30]
詳しい方は「千葉市美で写真展?」と思われるかもしれません。それもそのはず、千葉市美術館では15年ぶりの写真展です。
あまり知られていませんが、千葉市美術館にも写真コレクションがあり、展覧会のほとんどは千葉市美を含む巡回展の所蔵品で構成されています。
千葉市美術館からはじまり富山、新潟、東京と巡回。会場と会期はこちらです。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2023年4月7日 ]