1974年、西安郊外の秦始皇帝陵墓付近で発見された、等身大の人間や馬の像「兵馬俑」。一体一体違う顔をしたおびただしい数の像は、大きな驚きをもって世界中に報じられました。
現在に至る中国の礎を確立した、秦・漢両帝国の中心地域・関中(現在の陝西省)。中国の陝西省文物局が全面的に協力し、兵馬俑36点を含む約200点の貴重な文物で古代中国の謎に迫る展覧会が、上野の森美術館に巡回してきました。
上野の森美術館「兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~」
展覧会は時代順の3章構成ですが、東京展では1章→3章→2章と進みます。
第1章は「統一前夜の秦~西戎から中華へ」。紀元前770年、周王朝は洛陽に遷都。権威が失われるなか、斉、楚、魏、燕、韓、趙、秦が割拠する、春秋戦国時代に入ります。
小さな騎馬像は、秦王朝における兵馬俑の、最古の作例のひとつです。始皇帝の兵馬俑と比べると、とても小さく、写実性にも欠けています。
《騎馬俑》戦国秦 咸陽市文物考古研究所(一級文物)
ユニークな形の壺は、蟠螭紋(龍が絡み合う紋様)が施された、青銅の方壺。手が生えるかのように、鳥形の「耳」が飛び出しています。
隴県邊家莊村で発見されたもので、この地では春秋時代の秦の墓地も見つかっていることから、墓の副葬品であったと考えられています。
(左から)《蟠螭紋青銅壺》春秋秦 隴県博物館 / 《窃曲環帯紋青銅甗》春秋秦 隴県博物館 / 《蟠螭紋青銅甗》戦国秦 宝鶏市鳳翔区博物館
順路としては、次に出てくるのが第3章「漢王朝の繁栄~劉邦から武帝まで」。秦王朝はわずか十数年で滅亡。紀元前202年、漢の劉邦が西楚の項羽を破り、再び中華を統一しました。漢は秦の旧都・咸陽の廃墟の上に長安城を立て、行政においても秦の制度を引き継ぎました。
漢王国を打ち立てた皇帝・劉邦の家臣の墓の近くからは、約1,900体の兵馬俑が見つかっていますが、高さは50cmほど。始皇帝陵の等身大の武士俑に比べると、明らかに小さくなっています。
《彩色歩兵俑》前漢 咸陽博物院
金の馬は、前漢の武帝が、姉である陽信長公主に授けたとされる金メッキの像。モデルは「一日千里を走る」と謳われた西の大宛の名馬“汗血馬”です。
像は、汗血馬への憧れをかたちにしたものですが、後に武帝は大宛へ使者を送り、本物の汗血馬を獲得しています。
《鎏金青銅馬》前漢 茂陵博物館(一級文物)
最後が第2章の「統一王朝の誕生~始皇帝の時代」。紀元前221年、秦の嬴政は史上初めて中国大陸を統一。新たに「皇帝」を名乗り、ここに“始皇帝”が誕生しました。
目を引く大きな武器は、青銅製の「戟(げき)」。長い柄の横に突き出た「戈(か)」に、槍のような「矛(ぼう)」を付けた武器です。
展示されている品には「三年相邦呂不韋造」と刻まれており、当時、絶大な権勢を振るった秦の政治家、呂不韋が、この武器の製造責任者であったことが分かります。
(中央)《青銅戟》秦 秦始皇帝陵博物院(一級文物)
等身大の馬の俑は、長さ188cm、高さ165cmという堂々とした体躯。表情もいきいきとしています。頭部、頸部、腹部、臀部がそれぞれパーツごとにつくられ、接合されています。
そもそも秦は、周王朝で馬を繁殖させるため土地を与えられたことから始まっており、秦と馬は切り離せない関係にあります。
《戦車馬》統一秦 秦始皇帝陵博物院(一級文物)
本展の目玉は順路の最後に登場、日本初公開の《戦服将軍俑》です。将軍俑は、戦車に乗り歩兵や騎兵の小部隊を統率した高位の武官の俑です。
秦始皇帝陵に埋蔵されている約8,000体の兵馬俑群の中で、将軍俑は現在まで11体しか確認されていません。
《戦服将軍俑》統一秦 秦始皇帝陵博物院(一級文物)
会場では、人気マンガ『キングダム』とのコラボ展示も。『キングダム』ファンの方もお楽しみいただけます。
目玉の《戦服将軍俑》を含め、等身大の兵馬俑が並ぶ1階展示室は写真撮影も可能。展覧会は京都からスタートし、静岡、名古屋と巡回して東京が最終会場です。お見逃しなく。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2022年11月21日 ]