江戸湾や隅田川など水辺に囲まれ、街中には水路が張り巡らされていた江戸。舟運は人々の暮らしを支える交通主題でした。
陸路に目を転じると、江戸時代には東海道をはじめとした街道が整備され、物流はもちろん、庶民の間では旅も盛んになりました。
「はこぶ」をテーマに、江戸時代のさまざまな輸送の姿を描いた浮世絵、66点を紹介する展覧会が、太田記念美術館で開催中です。
太田記念美術館「はこぶ浮世絵-クルマ・船・鉄道」
展覧会は第1章「はこぶ人たち」からスタート。江戸市中や、諸国の様子が描かれた浮世絵から、それぞれの目的で物を運ぶ人々の姿を見ていきます。
片手で膳を担いで運ぶ女性。深川の遊里で座敷へ酒や料理を運ぶ仲居のことを「軽子(かるこ)」といいます。
同じ遊廓でも吉原では男性が行いましたが、深川では女性が行いました。その姿が目を引くためか、浮世絵にもよく描かれています。
月岡芳年《風俗三十二相 おもたさう 天保年間深川かるこ風ぞく》明治21年(1888)3月
海に面した遊郭でのにぎやかな様子が描かれた作品では、女性2人が大きな卓袱(しっぽく)台に盛られた料理を運んでいます。
これらの料理は「台の物」と呼ばれ、遊郭からの注文で仕出し屋が届けました。今でいうところのケータリングです。価格は「一分台」と呼ばれるもので、一分(約25,000円)です。
歌川国貞《遊郭の賑わい》文化13年(1816)頃
第2章は「船ではこぶ ― 水の都・江戸の舟運」。水の都といえるほど、暮らしの中に水辺があった江戸のまち。浮世絵を通して、江戸時代のさまざまな水運の形を紹介します。
まずは、渡し船。江戸時代には、渡しは橋のない川を渡る重要な交通手段でした。隅田川にはいくつもの渡しがあり、料金はそば一杯と同じ16文ほどでした。
歌川広重《東都名所図会 隅田川渡しの図》天保14~弘化4年
こちらは、両国の料亭での賑わいを描いた浮世絵です。水辺にある料亭には屋根船などで直接乗り付けることができ、現代の感覚では、かなりゴージャスな遊びです。
看板には「万」の文字が見えるので、柳橋にあった万八楼を描いた可能性があります。さらに一部の人物は似顔絵風に描かれているので、実在のモデルがいたものと思われます。
歌川国安《東都両国繁栄之図》文政(1818~30)頃
第3章は「東街道をはこぶ ― 東海道の旅と陸運」。東海道を始めとする五街道の起点として、日本橋が定められたのが慶長9年(1604)。以降、各街道の宿場で宿駅制度が整えられ、物資や人の移動が盛んに行われるようになりました。
「はこぶ浮世絵」なら、この作品を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。広重による名高い日本橋の絵では、大名行列が橋を渡っているほか、手前には棒手振りの商人たちが商品を運ぶ姿も見えます。
歌川広重《東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景》天保4~7年(1833~36)頃
大井川は架橋や船渡しが許されておらず、川を渡るには川越人足を使いました。
人を乗せて運ぶ輦台(れんだい)は、手すりの有無や大きさによって値段が異なります。最も安価なのは肩車ですが、その分、危険も伴いました。
歌川広重《大井川歩行渡》嘉永6年(1853)2月
最後の第4章は「文明開化と〈はこぶ〉」。明治5年(1872)、新橋と横浜間に鉄道が開業。文明開化の象徴ともいえる鉄道は、浮世絵にも数多く描かれていますが、実際に走ったものとは全く違う姿で描かれていることもありました。
こちらは、幕末に異国の乗り物として蒸気機関車を描いた作品。浮世絵で蒸気機関車を描いた最初期の例と考えられています。
歌川芳員《亜墨利加国蒸気車往来》文久元年(1861)10月
こちらは、鉄道懐疑後の作品です。六郷橋に架かる鉄道橋を、機関車が走っています。六郷川(多摩川)には鉄道開業の際、西洋式の方杖型木橋が架けられました。
客車部分に「下等」の文字が見えますが、当時は上等・中等・下等と3種の運賃がありました。
三代歌川広重《東海名所改正道中記四 川崎 六郷川鉄道 神奈川迄ニり半》明治8年(1875)8月
ひとつの事象をテーマに据えて、さまざまな浮世絵作品を見せていく、太田記念美術館が得意とする企画展。
すでに見たことがある浮世絵でも、テーマに沿って見ていくことで、新たな一面が見えてくることがしばしばあります。会期は約1ケ月、展示替えは無しでお楽しみいただけます。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2022年9月30日 ]