河井寬次郎記念館(京都市)の所蔵作品を中心に紹介する本展。初公開となる山口大学所蔵作品も含め、充実した大回顧展となりました。
構成はジャンルごとに「土」「彫・デザイン」「言葉」。大きなスペースで紹介されているのは、もちろん「土」です。
河井寬次郎は島根県安来市生まれ。東京高等工業学校(現・東京工業大学)窯業科では後輩の濱田庄司に出会い、生涯の友人となりました。
中国や朝鮮古陶磁の手法に基づいた作品は、大正10(1924)年の初個展で「天才は彗星のごとく現る」と絶賛されましたが、大正13(1924)年に濱田を介して柳宗悦と親交を結ぶと、それまでの作風は一変。実用を重んじた力強い作品へと変化し、柳や濱田と民藝運動を推進します。さらに戦後になると、実用を離れて自由で独創的な造形表現に達しました。
半世紀に及ぶ作陶生活を振り返ると、同一作家とは思えないほどバラエティ豊か。特に釉薬の使い方には定評があり、柳宗悦は「富本(憲吉)は模様、河井は色彩、濱田は形」と評しています。
「土」戦後、寬次郎は陶器と平行して木彫を制作。60歳から70歳にかけ、約100点の木彫作品を作っています。
木彫を手掛けるきっかけになったのが、自邸(現・河井寬次郎記念館)建築時に出た余材を用いた作品。寬次郎は自邸の設計も手掛け、家具調度類も自らデザインしています。
「彫・デザイン」寬次郎のもうひとつの特徴といえるのが、その精神や思考が凝縮された言葉の数々。若い頃より『學友會雑誌』に投稿するなど、書くことも得手としており、58歳の時に『いのちの窓』という一冊の本にまとめられました。
寬次郎の言葉は、最終的には四~五文字の漢字による造語に到達しました。これらの言葉は読み方が提示されておらず、その解釈は読み手に任されています。
「言葉」、「学んだもの」「コレクション・遺愛品」「資料」展覧会最後には愛用品や資料なども展示されています。
異彩を放つのが、トランジスタラジオ「パナペット(R-8)」。パナソニック創業者の松下幸之助が、寬次郎を文化勲章に推薦した際に、手土産として持参した、当時の最新機種(同型種)です。寬次郎は文化勲章を辞退しましたが「これが私にとっての文化勲章だ」とラジオを喜び、いつも枕元に置いていたそうです。
展覧会ではユニークな試み「寬次郎みくじ」も実施中。寬次郎のことばをおみくじにしたもので、寬次郎の誕生日(8/24)と月命日(8/18:命日は11/18)および毎週火曜日に、ひとり1枚引く事ができます。各日先着100名です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2018年7月6日 ]