日本で映画の上映が始まってから約120年。最近の映画館は、複数のスクリーンがある巨大なシネマコンプレックス(シネコン)が主流になりましたが、かつては少し大きな町ならどこでも映画館がありました。
黎明期からシネコンが登場する直前までを対象に、日本における「観客の映画史」を紹介する展覧会が、国立映画アーカイブで開催中です。
会場の国立映画アーカイブ
展覧会は会場に入る前から展示がスタート。映画館が街のシンボルだった時代の熱気が漂ってくるようです。
幟旗は1970年代までは劇場宣伝の主力メディア。大きな「映」の文字は、2006年に閉館した水戸東映の屋上にあったネオン看板です。
「日本の映画館」会場入口前
1897年3月に初めて東京で映画の興行が行われたのは、貸席である神田の錦輝館。日本初の映画常設館は、1903年に浅草六区に開館した電気館です。
日露戦争の「実写」映画の成功で映画興行は注目されるようになり、各地に映画館が誕生していきました。
1912年に日本活動写真株式会社(日活)、1920年には松竹キネマ合名社が創立。日本の映画産業は基盤が整いました。
第1章「映画常設館の誕生」
1923年の関東大震災では、映画館も大きな被害を受けました。浅草などの映画館は特別立法で認められた「バラック建築」で再建され、粗末な構造を隠す個性的な外観は目を引きました。
都心に比べて比較的被害が少なかった郊外に市街地は拡大。新宿は繁華街化が進みました。
昭和になると日本映画はサイレントからトーキーへと大きな転換期を迎え、最初の黄金期に突入。映画は庶民の娯楽として大きな位置を占めましたが、戦争でさまざまな統制を受けることになります。
第2章「関東大震災復興から戦時期へ」
1945年8月15日の終戦から一週間、日本の映画史上で初めて全国で映画興行が中止されました。ただ、庶民が映画を求める声は強く、各地で映画館建設が進み、戦後の映画黄金時代を迎えることとなります。
シネコンが普及するまで、日本における映画産業は「ブロック・ブッキング」が主流でした。これは映画の製作・配給・興行を大手の映画会社が垂直的に統括するシステムで、冒頭の「水戸東映」のように「地名+映画会社名」の映画館が各地にあったのはそのためです。
第3章「新たなる復興から戦後映画黄金期へ」
会場には「ある街の映画館」と称した特別コーナーも。川崎市で映画館をメインとする事業を展開する株式会社チッタエンタテイメントは、1922年に東京日暮里に「第一金美館」を開業、ちょうど100周年となりました。
現在でも独立系の興行会社として関東で屈指の存在で、娯楽を通じた街づくりというポリシーを維持しています。
特別コーナー1「東京から川崎へ~映画館「チネチッタ」の100年」
北九州市の映画・芸能資料館松永文庫が所蔵する映画興行主の旧蔵資料も紹介されています。
北九州・門司生まれの映画興行主・中村上(1903-1992)は、小倉松竹館など北九州一円、行橋市の富士館、大分県の中津松竹座などの館を経営。自ら映画資料館の建設も計画しましたが、志半ばで死去しました。
特別コーナー2「九州と興行主・中村上~松永文庫所蔵資料より」
1962年に日本アート・シアター・ギルド(ATG)が初めて映画を配給。それまでの映画配給の単一的な構造に抗って「アート映画」の存在とコンパクトな配給系統を提示しました。
1980年代からは芸術的に優れた作品を小規模の劇場で単館公開するミニシアターが続々と誕生。地方の大都市にまで広がっていきました。
第4章「名画座とアート系劇場」
3章で紹介されているように、日本中の映画館が休館になったのは終戦直後の1週間だけ。「映画は止まらないもの」と思っていたという、本展の企画担当で、国立映画アーカイブ主任研究員の岡田秀則さんにとって、コロナ禍で映画館が一斉に休館したのは衝撃的な出来事でした。
その思いを詰め込んだような熱い展覧会。300点以上の資料で見ごたえたっぷりです。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2022年4月8日 ]