約150年前に近代国家として歩みはじめた日本。北端の港湾都市だった箱館は函館に改称され、幕末期にはロシア人より伝えられた技術を起点に、写真文化が花開きました。
幕末から明治にかけて激動の歴史を辿った、はこだて(箱館・函館)の姿を紹介する展覧会が、東京都写真美術館で開催中です。
東京都写真美術館「幕末明治のはこだて」会場入口
展覧会は第1章「はこだての歩み」から。まずこの章では、初期写真だけでなく、多くの資料から「はこだて」をひも解きます。
現在の北海道に人類の定住が始まったのは、今から約3万年前。13世紀前後にはアイヌ文化の原型がつくられ、17-18世紀には和人の定住が本格化しました。
函館とロシアの交流が始まったのは、寛成5(1793)年です。エカテリーナ2世の命を受け、大黒屋光太夫ら漂流民が函館に送り届けられました。
作者不詳《寛成五年六月八日入港・七月十七日退帆函館渡来露船エカテリナ号乗組員像》寛成5(1793)年 函館市中央図書館
安政7(1860)年には、初代ロシア領事館の付属聖堂として、函館ハリストス正教会復活聖堂が建立されました。明治元(1868)年には3名の日本人が洗礼を受けていますが、当時はまだ、キリスト教は禁止されていました。
建物は明治40(1907)年の函館大火で全焼。現在の建物は大正5(1916)年に再建されたものです。
池田種之助ほか《ハリストス正教会堂ほか》撮影年不詳 函館市中央図書館
第2章は「はこだてを捉えた写真家と幕末・明治の写真技術」。箱館(函館)は、長崎、横浜などと並んで、日本における写真発祥の地のひとつです。
田本研造(1831-1912)は、紀州(現三重県)生まれ。安政6(1859)年に箱館に渡り、壊疽のため右足を切断するという悲劇に見舞われますが、その治療中にロシア人医師らから指導を受けて写真の技術を取得しました。
(左から)池田種之助《田本研造とその写場》上:明治末、下:明治11年 函館市中央図書館 / 田本研造《男性像》明治26年 東京都写真美術館
武林盛一(1842-1908)は陸奥(現青森県)生まれ。田本研造から写真の技術を取得し、明治4(1871)年に函館で写真館を開業。後に開拓使写真御用掛にも任命されています。
(左から)武林盛一《札幌駅》明治4-13年頃 / 武林盛一《札幌屯田兵村前の鉄道》明治4-13年頃 ともに東京都写真美術館
この章ではカメラや三脚、原板など撮影機材も紹介されています。
いかにもクラシカルな大きなカメラは、木製の本体に革の蛇腹を付けた折り畳み式。日本では組立暗箱と通称されました。職業写真家の標準的な機材として、昭和30年代まで長く使われました。
製作者不詳《四切判野外用組立暗箱》20世紀前半 / 製作者不詳《野外用四切判暗箱三脚》20世紀前半 / 製作者不詳《野外用四切判暗箱ホルダー》20世紀前半 / C.P.ゲルツ《ダゴール 36cm F7.7(ベルリン C.P.ゲルツ製)レンズ》20世紀前半 / 製作者不詳《ソルントンシャッター》20世紀前半 すべて日本大学藝術学部
第3章は「はこだて鳥瞰」。開拓使本庁が札幌に移転した後も、北海道における人と物資の入口は函館でした。
人口が増加すると水質が悪化し、明治期の函館はコレラが蔓延します。近代的な上水道の整備が求められ、明治22(1889)年に上水道が完成。これは横浜に次いで、日本で2番目の早さです。
東京都写真美術館「幕末明治のはこだて」展示風景 壁面のスライドショーは、田本研造《水導布設工事写真帖》《第ニ水道工事写真帖》より
大型船の増加と土砂などの流出により、港の深さが不足してきたため、明治29(1896)年には函館港の改良工事が始まりました。
明治期の弁天台場は解体され、防砂堤を築造。港の海底の土砂を取り除き、港内波浪を防ぐための埋め立て工事も行われました。工事は明治33(1900)年に完成。街並みも大きく変わりました。
田本研造《函館港改良工事 弁天岬台場廃毀写真帖》明治30年 函館市中央図書館
激動の時代をぎゅっと詰め込んだような展覧会。函館からも貴重な資料が数多く出品されています。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2022年3月7日 ]