フランス語で「新しい芸術」を意味するアール・ヌーヴォー。ヨーロッパを席巻したこの芸術様式には、日本の美術が影響を与えており、逆に日本でも多くの美術家たちが最先端の美術としてアール・ヌーヴォーを受け入れました。
「めぐる」をキーワードに双方の関係を探り、日本と西洋の美術・工芸作品を紹介する展覧会が、金沢の国立工芸館で開催中です。
国立工芸館
展覧会は3章構成で、1章は「日本のインパクトと〈新しい芸術〉の誕生」からです。
19世紀後半、ヨーロッパに日本の姿が知られるようになると、その芸術は新鮮な驚きをもって受け入れられ、ジャポニスムは一世を風靡します。
ジャポニスムの流行が衰退すると、代わるように広まったのがアール・ヌーヴォー(新しい芸術)でした。
1章「日本のインパクトと〈新しい芸術〉の誕生」展示風景
二代横山彌左衛門の《菊花文飾壺》には、日本をイメージさせる菊の花が、動きがあるアール・ヌーヴォー風に表現されています。
1889年のパリ万博に出品されたこの作品を制作させたのは、美術商としてパリで活躍した林忠正です。パリで流行の変遷を身をもって感じていた林は、ヨーロッパで見せるべき日本の姿を理解していたといえます。
(左奥)エミール・ガレ《ウリ文筒形花瓶》1884-89年頃 / (左手前)エミール・ガレ《ダリア文皿》1895年頃 / (右)二代横山彌左衛門(孝純)《菊花文飾壺》1886-89年
2章は「アール・ヌーヴォーの先へ、図案家たちが目指したもの」。1900年前後の日本の画家や図案家は、日本に持ち込まれた資料などを通じてアール・ヌーヴォーと出会い、自らの表現に取り入れていきました。
日本でアール・ヌーヴォーを受容した作家の代表的な存在といえるのが、杉浦非水です。黒田清輝の門弟だった非水。フランスから帰国した黒田が持ち込んだ雑誌などは、非水の大きなインスピレーション源になりました。
2章「アール・ヌーヴォーの先へ、図案家たちが目指したもの」展示風景
非水の作品は、特に三越呉服店の図案部で勤務する前の大阪時代に、アール・ヌーヴォーらしいデザインが見られます。
ただ非水は、三越呉服店で初めてつくった大きなポスター《三越呉服店 春の新柄陳列会》について、アール・ヌーヴォーではなく、同時代の芸術運動であるウィーン分離派(ゼセッション)を意識したと語っています。
非水が同時代の美術の動向を巧みに自身の作品に生かしていることがわかります。
(左から)杉浦非水《三越呉服店 新館落成》1914年 / 杉浦非水《三越呉服店 春の新柄陳列会》1914年
3章は「季節がめぐる工芸、自然が律動するデザイン」。日本の作品が並ぶこの章は、アール・ヌーヴォーとの関連が薄いようにも感じられますが、むしろここからが本編ともいえます。
「芽の部屋」では、杉浦非水と板谷波山が特集されています。両者とも、花の生命に眼を向け、意匠に活かしていきました。
(左手前)板谷波山《葆光彩磁牡丹文様花瓶》1922年 / (右奥)杉浦非水《非水百花譜》1920-22年(春陽堂・発行)
日本の工芸には、身近な草花や小さな虫に着目した意匠がしばしば見られますが、その点こそが西洋の人々にとって大きな発見でした。
日本にいる私たちにとって、装飾芸術に自然を取り入れる事は当たり前のようにも感じますが、ここまで細やかな眼差しは、西洋の感覚からすると驚異的なのです。
会場に並ぶ作品を見ると、日本の芸術家による自然に対する意識は、ジャポニスムやアール・ヌーヴォーの時代に限ったものではないこともよくわかります。
3章「季節がめぐる工芸、自然が律動するデザイン」展示風景
鹿島一谷の《布目象嵌秋之譜銀水指》は、秋の草むらのなかでの虫の様子を、戯画的に描いた作品です。
鏨(たがね)で銀の素地に布目状の細い溝を刻み、そこに金や青金などの薄い金属をはめ込む布目象嵌(ぬのめぞうがん)という凝った技法が使われています。
(左から)鹿島一谷《布目象嵌蛙と野草文銀朧銀接合せ壺》1991年 / 鹿島一谷《布目象嵌秋之譜銀水指》1978年
近年ガレとドーム兄弟の作品がまとめて寄贈された国立工芸館。本展は、それらの作品のお披露目も兼ねています。また、ヨーロッパのポスターが一堂に展示されるのも、石川移転後では初めての機会です。
国立工芸館は、工芸作品とともにデザイン作品がコレクションの柱のひとつです。両者を比較しながら見る事で、アール・ヌーヴォーを多面的に楽しめる展覧会です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2021年12月24日 ]