大正から昭和にかけて京都を中心に活躍した日本画家、小早川秋聲(1885-1974)。
戦時中は従軍画家として戦地に何度も赴き、数多く戦争画を制作。中でも、亡くなった将校の顔に日章旗がかけられている《國之楯(くにのたて)》は、陸軍が受け取りを拒否した作品としても有名です。
初期の歴史画から、初公開の戦争画、晩年の仏画まで百余点を紹介する展覧会が、東京ステーションギャラリーで開催中です。
東京ステーションギャラリー「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌」会場入口
会場は時代順に4章構成。第1章「はじまり 京都での修業時代」からスタートします。
鳥取の住職の長男として生まれた小早川秋聲(本名・盈麿)。9歳で僧籍に入った後、画家を志し、歴史画を得意とした日本画家の谷口香嶠に師事。《譽之的》《楠公父子》などは、谷口に学んだ緻密な歴史画です。
(左から)小早川秋聲《譽之的》明治末期~大正期 個人蔵 / 小早川秋聲《楠公父子》明治末期~大正期 個人蔵[ともに全期間展示]
第2章は「旅する画家 異文化との出会い」。谷口香嶠が亡くなった後には、京都画壇の巨匠・山元春挙に師事。各地を積極的に旅しては、制作を続けました。
1930年末からは、憧れの西洋へ。中国国内からインド、イタリア、ドイツなど17カ国を訪れ、各地の美術館などを見学。色彩感覚が磨かれ、明るく瑞々しい画風に変化していきました。
(左奥から)小早川秋聲《伊太利ベスビオス山 夕月 流浪楽人》1923~24年頃 個人蔵[展示期間:10/9~10/31] / 小早川秋聲《伊太利 ナポリ ベスビオスの夕月》1923~24年頃 個人蔵[展示期間:10/9~10/31] / 小早川秋聲《エジプト カルナック アイシス宮殿趾の月》1923~24年頃 個人蔵[全期間展示]
日本では文展や帝展など、各種展覧会に大作を発表。
第11回帝展に出品した《愷陣》は、戦火をくぐり抜けてきた軍馬を花で飾り労をねぎらった、という漢詩から想を得た作品。この作品から帝展の推薦(永久無鑑査)となりました。
(左から)小早川秋聲《愷陣》1930年 個人蔵 / 小早川秋聲《黙》1930年 個人蔵[ともに全期間展示]
第3章は「従軍画家として 《國之楯》へと至る道」。満州事変が勃発すると、秋聲は直後に北満州へ。以後も従軍画家として何度も戦地を巡り、聖戦美術講演会では藤田嗣治とともに講演も行いました。
ただ、同じ戦争画でも、藤田の激烈な戦争画と比較すると、秋聲は叙情的な作品も目立ちます。《虫の音》は、戦地で疲れた兵士がぐっすりと眠り込む様子が描かれています。
(左手前)小早川秋聲《虫の音》1938年 個人蔵[全期間展示]
展覧会の目玉といえる《國之楯》は、下絵と並んで紹介されています。陸軍将校の遺体の頭部には、寄せ書きされた日章旗。当初は体の上に桜が降り積もるように描かれていたと思われますが、後に黒く塗りつぶされました。
陸軍省の依頼で描かれた作品ですが、受け取りを拒まれたため、秘匿される事に。戦後に初公開される前に改作され、現在の姿になりました。
近くで見ると、塗りつぶされた桜の花の部分がうっすらと残ります。秋聲の意図とは異なるかもしれませんが、死の厳粛なイメージが強調されたようにも感じられます。
(左から)小早川秋聲《國之楯》1944年、1968年改作 京都霊山護国神社(日南町美術館寄託) / 小早川秋聲《國之楯》(下絵) 1944年頃 個人蔵[ともに全期間展示]
そして最後の第4章は「戦後を生きる 静寂の日々」。終戦後、秋聲は戦犯として捕まることも覚悟していましたが、幸いにも罪を問われる事はなく、穏やかな日々を過ごす事となります。大きな展覧会にはほとんど出品しなくなりますが、仏画や小品などを多く描きました。
《天下和順》は、多くの人々が満月の下で酒を飲み、踊っている祝祭の風景。平和な世の中を願う偈文(げもん:仏典の中の言葉)から取った画題は、秋聲が好んだ言葉でした。
(左から)小早川秋聲《天下和順》1956年 鳥取県立博物館[全期間展示] / 《延寿》1947年 圓重寺[展示期間:10/9~10/31]
秋聲は1974年に88歳で死去。その画業は徐々に忘れられて行きますが、1995年になり『芸術新潮』に作品が掲載された事から再評価の機運が高まりました。
今回の展覧会が、没後初めてとなる大規模展。東京展の後は鳥取に巡回、会場と会期はこちらです。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2021年10月8日 ]