世界中で絶大な人気を誇るポスト印象派の巨匠、フィンセント・ファン・ゴッホ。存命中の評価は高いとはいえなかったファン・ゴッホの芸術に深い精神性を見出し、早くから収集を始めたのがヘレーネ・クレラー=ミュラーでした。
ヘレーネが初代館長を務めたクレラー=ミュラー美術館のコレクションから来日した、選りすぐりのファン・ゴッホ作品を紹介する展覧会が、東京都美術館で開催中です。
「ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」が開催されている、東京都美術館
ドイツの小村、ホルストで生まれたヘレーネ。19歳で父のビジネスパートナーの弟、アントン・クレラーと結婚し、オランダに移住しました。
夫のアントンは義父から会社を継ぎ、鉄鉱業と海運業で成功。ヘレーネはアントンとともに、ファン・ゴッホによる 90点を超える油彩画と約180点の素描・版画を収集し、世界最大の個人収集家になりました。
(左から)フローリス・フェルステル《ヘレーネ・クレラー=ミュラーの肖像》1910年 / フローリス・フェルステル《H.P. ブレマーの肖像の肖像》1921年 ともにクレラー=ミュラー美術館
ヘレーネは、コレクションの継承と公開を意識していたため、自らの好みだけでなく、西欧美術の流れにも目を配って収集を進めています。
とりわけ熱心に収集したのは、19世紀半ばから1920年代の作品です。フランス写実主義の画家、アンリ・ファンタン=ラトゥールの作品には強く惹かれていたようで、15点の油彩画を入手しました。
アンリ・ファンタン=ラトゥール《静物(プリムローズ、洋梨、ザクロ)》1866年 クレラー=ミュラー美術館
ヘレーネが収集したファン・ゴッホの作品は、その画業をほぼ網羅しています。会場では時代ごとに作品を紹介していきます。
1880年8月に画家になる決意を固めたファン・ゴッホは、まずジャン=フランソワ・ミレーなどの版画作品や教本の素描見本を模写。1881年4月にエッテンへ移ると、農作業や手仕事をする人物を描き始めました。
フィンセント・ファン・ゴッホ《ジャガイモを食べる人々》1885年4月 クレラー=ミュラー美術館
ファン・ゴッホ は1883年12月に移り住んだニューネンの地で、本格的に油彩画を始めました。この頃はバルビゾン派やハーグ派の作品を手本に、暗い色調の作品を描いています。
1884年から翌年にかけて、ファン・ゴッホは農民の顔を繰り返し描いています。農民の粗野な感じを好んだため、いつも「醜いモデル」を選んでいる、と言われるほどでした。
フィンセント・ファン・ゴッホ《女の顔》1884年11月-1985年1月 / フィンセント・ファン・ゴッホ《白い帽子を被った女の顔》1884年11月-1985年5月 ともにクレラー=ミュラー美術館
1886年2月、ファン・ゴッホはパリに移り、画商として働く弟テオと暮らし始めます。パリで新しい芸術に触れたファン・ゴッホは、自らの描き方が時代遅れであることに気づき、新しい表現を試みていきます。
ファン・ゴッホは自ら浮世絵版画を収集するなど、日本美術からも大きな影響を受けました。シンプルなものに本質を見出す日本の芸術家に憧れ、自らも草地などに魅力を見出しています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《草地》1887年4-6月 クレラー=ミュラー美術館
限られた仲間内ではありますが、ファン・ゴッホの新しい表現は認められ、自信を深めたファン・ゴッホは1888年2月、南仏のアルルに居を定めました。色彩の研究に取り組み、南仏の明るい空の青と、燃えるように鮮やかな太陽の黄色の組み合わせに熱中します。
10月にはポール・ゴーガンも合流。ふたりは影響を与え合いながら制作しましたが、次第に関係はこじれ、共同生活は2カ月で終焉。悲劇的な「耳切り事件」を迎えてしまいます。
フィンセント・ファン・ゴッホ《レモンの籠と瓶》1888年5月 クレラー=ミュラー美術館
展覧会には特別出品として、オランダのファン・ゴッホ美術館にある作品も展示されています。
ファン・ゴッホの没後、多くの作品は弟のテオが相続し、テオの没後はその妻ヨーと息子フィンセント・ウィレムが継承しました。これらは1973年にアムステルダムに開館したファン・ゴッホ美術館に、永久貸与されています。
「黄色い家」は、アルルでファン・ゴッホが移り住んだ家です。ファン・ゴッホは新しい家での生活に期待を寄せており、12脚の椅子を買ったと、弟のテオに報告しています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《黄色い家(通り)》1888年9月 ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)
ファン・ゴッホは、アルルを離れた後、サン=レミ郊外にある療養院に自ら入院。体調が良い時は、療養院の庭や周囲の田園風景をモチーフに、制作を行いました。
この時代の作品は、色調がアルルの頃より抑えられています。《夕暮れの松の木》も、当初は明るい色彩で描き始めましたが、途中からくすんだ色にしたと手紙に記しています。
ファン・ゴッホは1890年5月に療養院を退院し、北仏のオーヴェール=シュル=オワーズに移りましたが、7月27日に銃で自らを撃ち、弟テオに看取られながら、2日後に死去しました。
(左奥から)フィンセント・ファン・ゴッホ《麦束のある月の出の風景》1889年7月 / フィンセント・ファン・ゴッホ《夕暮れの松の木》1889年12月 ともにクレラー=ミュラー美術館
本展の目玉といえる作品が《夜のプロヴァンスの田舎道》。サン=レミ時代の傑作です。
ファン・ゴッホはこの時期、「〈ヒマワリ〉のような作品にしたい」と糸杉をモチーフにした作品を集中的に制作。糸杉の濃い緑色に心を奪われながらも、それを表現する難しさを、弟テオに宛てた手紙に何度も記しています。
本作は、おそらく南仏滞在の最後に制作されたプロヴァンスの集大成といえる作品で、実に16年ぶりの来日となりました。
フィンセント・ファン・ゴッホ《夜のプロヴァンスの田舎道》1890年5月12-15日頃 クレラー=ミュラー美術館
ヘレーネは夫アントンの支えのもと、11,000点を超える作品を入手。美術による感動を多くの人々と分かち合うべく、生涯にわたり美術館の設立に情熱を注ぎ、ついに1938年にクレラー=ミュラー美術館を開館。初代館長に就任し、長年の夢を実現しました。
コロナ禍で海外からの作品貸与が難しくなった中で、久しぶりといえる大規模な西洋美術展です。平日・土日を問わず、入場は日時指定の予約制になりますので、ご注意ください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2021年9月17日 ]