江戸時代後期に活躍した浮世絵師、歌川国芳(1797~1861)。売れない不遇の時期の後、30代前半に武者絵で大ブレイク。以後は戯画、役者絵、子供絵、風景画、美人画など、さまざまなジャンルで多彩な特品を手がけました。
ちょうど没後160年にあたる今年、国芳の生涯と作品を改めて紹介し、その魅力に迫る展覧会が、太田記念美術館で開催中です。

太田記念美術館 外観
展覧会は二期に分けて、全6章構成。PART Ⅰでは、前半の2章が紹介されています。
第1章は「笑いを描く」。何でもこなした国芳ですが、なかでも武者絵と並んで国芳が得意としたのが戯画でした。
《心学雅絵得 猫と鼠》は、本来は敵である猫と鼠が打ち解けた様子で宴会をしている作品。国芳の猫好きは有名で、常に猫を数匹飼っていました。

歌川国芳《心学雅絵得 猫と鼠》天保13年(1842)頃
こちらも猫をモチーフにした作品。寄せ絵の手法で描かれたシリーズで、「かつを」は、猫がお菓子の袋をかぶったり、口に鰹をくわえたり。「なまづ」も画中に鯰が描かれています。
それぞれの猫のポーズは、とてもユニーク。国芳の真骨頂といえる作品です。

(左から)歌川国芳《猫の当字 かつを》天保14年(1843)頃 / 歌川国芳《猫の当字 なまづ》天保14年(1843)頃
あらゆるものを擬人化した国芳。こちらは、とうもろこしが獅子の精を演じています。
弘化2年(1845)、江戸で奇妙な形のとうもろこしが生えたと立て続けに話題となり、それを戯画に仕立てた作品と考えられています。

歌川国芳《道外とうもろこし 石橋の所作事》弘化2年(1845)頃
《欲といふ獣》は、人間の持っている三十の欲が一つに集まって生まれた架空の動物。皮の厚い面、金にくらむ目、義理も事も恥も欠く三角(三欠く)の角など、体の各所が欲からできています。
天保の改革を推進した老中・水野忠邦を風刺した作品という指摘もありますが、刊行された時、すでに水野は失脚していました。

歌川国芳《欲といふ獣》弘化4~嘉永元年(1847~48)頃
こちらも寄せ絵で、何人もの人が寄り集まって大きな顔になったシリーズ。
肌色だけでは顔にならないので、《人かたまつて人になる》では、黒い褌が目に、黒帯が眉に。《としよりのよふな若い人だ》は、眉が鎌、髪の毛が黒縞の着物を着て丸くなる女性でできています。

(左から)歌川国芳《人かたまつて人になる》弘化4年(1847)頃 / 歌川国芳《としよりのよふな若い人だ》弘化4年(1847)頃
今回の裏テーマといえるのが、規制下における活動について。国芳が活躍した天保期は、老中・水野忠邦による天保改革で、役者や遊女などが描けなくなりました。
規制の中で、国芳は人間以外のものを擬人化した戯画を制作。幕府を暗に風刺していると取り調べを受ける事もありましたが、逆風の中でも作品を描き続けました。
《流行猫のおも入》は、鈴のついた猫の首輪の意匠の中に、擬人化された役者似顔を描いた作品。役者は猫の着物の紋で、誰を描いたか分かる趣向です。

歌川国芳《流行猫のおも入》天保12~13年(1841~42)頃
こちらは、役者似顔を用いた国芳の戯画の中でも傑作のひとつとされる作品。壁に描かれた落書きにみたてて、あえてラフな体裁で役者を描いています。国芳の並外れた観察力と画力がよくわかります。
天保改革による役者絵への規制は、弘化4年(1847)頃になると、ようやく緩和されてきました。

歌川国芳《荷宝蔵壁のむだ書(黄腰壁)》弘化4年(1847)頃
第2章は「世相と流行を描く」。当時の『水滸伝』ブームに乗り、武者絵で世に出た国芳。江戸の最新の世相や流行には敏感な絵師でした。
「本朝水滸伝豪傑(剛勇)八百人一個」は、人気の読本だった曲亭馬琴『南総里見八犬伝』を題材にしたもの。芳流閣での、犬塚信乃と犬飼見八(後に現八)による立ち回りの場面を、生き生きと描きました。

歌川国芳《本朝水滸伝豪傑八百人之一個 里見八犬子の内 犬塚信乃戌孝/犬飼見八信道》天保2年(1831)頃
こちらは、市村座の初春興行の様子を描いた作品。演目は東海道五十三次を京から下っていく芝居「梅初春五十三駅」で、本図は岡崎の場面です。
市村座は、天保5年(1834)2月、神田佐久間町より出火した大火で、中村座や森田座らとともに被災。この興行は、ようやく本普請が終わったことを祝して行われたものです。

歌川国芳《五拾三次之内 岡崎の場》天保6年(1835)2月
10月1日から始まるPART Ⅱでは後半の4章として「物語を描く」「風景を描く」「市井を描く」「国芳の自画像」を紹介。全作品入れ替えとなります。
会期中2回目以降の方は、半券提示で200円引きのリピーター割引も実施中。前後期あわせてお楽しみください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2021年9月3日 ]