「ゴジラ」や「ウルトラマン」などの特殊撮影で知られる“特撮の父”、円谷英二(1901-1970 本名:英一)。近年は特撮をめぐる大規模な展覧会も開かれるなど、その技術に関する考察は進んでいますが、円谷自身を日本映画史の中に位置づけようとする機会は、あまりありませんでした。
円谷の生誕120年を記念した本展は、前半生のキャリアにも注目して、その生涯を紹介します。
国立映画アーカイブ 入口
国立映画アーカイブで開催されている本展、第1章は「若き映画キャメラマンとして」です。
円谷英二は福島県須賀川町(現・須賀川市)生まれ。幼い頃は飛行機に魅せられていました。
東京の玩具会社で働いていた際、花見で隣席と喧嘩になり、その仲裁で知り合ったのが撮影技師の枝正義郎。枝正に誘われるかたちで映画界に入りました。
第1章「若き映画キャメラマンとして」 正面は枝正義郎
1924年にキャメラマンとしてデビュー。後に長谷川一夫として大スターになる林長二郎の映画デビュー作『稚児の剣法』も撮影するなど、時代劇のフレッシュなキャメラマンとして頭角を表します。
キャメラマン時代にも、写真技術的処理による合成、撮影用クレーンの開発など、さまざまな撮影技術に関心を示していた円谷。1933年公開のアメリカ映画『キング・コング』に衝撃を受け、円谷は自らの歩むべき道を見出しました。
第1章「若き映画キャメラマンとして」
第2章は「特撮への志」。1934年、円谷はアメリカからトーキー技術を導入してスタジオを建設したJ.O.スタヂオに入社。1937年にJ.O.、写真科学研究所、P.C.L. 映画製作所、東宝映画配給の合併で東宝映画が創立されると、円谷は特殊技術課課長に就任します。
特殊撮影における円谷の技術が開花したのは、皮肉にも日米開戦でした。1912年公開の『ハワイ・マレー沖海戦』は、東宝第二撮影所に真珠湾の大掛かりなミニチュアオープンセットを作って撮影。その画期的な映像は、後に押収されたフィルムを見たアメリカ人が、実際の記録映画と勘違いしたという逸話も残ります。
第2章「特撮への志」
第3章は「東宝特撮の時代」。円谷は戦時中に戦意高揚映画に加担したとされ、公職追放に。1952年に東宝に復帰すると『太平洋の鷲』など戦争スペクタクル映画の特撮に取り組みながら、プロデューサー田中友幸が進める「G作品」に本多猪四郎監督と参加。これが1954年の怪獣映画『ゴジラ』になりました。
ゴジラの成功は、説明するまでもないでしょう。国内だけでなく世界的な反響を獲得し、特撮の世界も大きく広がっていきました。
その後も東宝撮影所は怪獣映画やSF映画を量産、円谷は日本映画初の「特技監督」となり、特撮映画は黄金時代へ突入していきます。
第3章「東宝特撮の時代」
この章には、1957年の興味深い資料も紹介されています。俳優ブローカー出身の映画製作者、星野和平の個人事務所が計画した幻の怪獣映画で、その名も『ギュヨードラゴン』。「ギュヨー」は頂上が平らな海底の山を意味する地理用語で、水爆実験の影響で海から生まれる怪獣という設定は『ゴジラ』の影響を受けています。
主演として検討されているのは新東宝の宇津井健、久保菜穂子。製作費の算定や円谷研究所との契約まで準備を進めながらも、実現には至りませんでした。本展で初公開となる資料です。
第3章「東宝特撮の時代」 《未映画化企画「ギュヨードラゴン」製作資料》1957年
第4章は「円谷プロの創設」。1963年、円谷は来たるテレビ時代を見据えて、円谷特技プロダクション(現・円谷プロダクション)を設立します。
1966年からTBSで新番組『ウルトラQ』が放映。同年にはカラー作品『ウルトラマン』、翌年の『ウルトラセブン』と、シリーズ化に成功。円谷プロのテレビ特撮路線を確立しました。
大阪万博でも三菱未来館の映像を手がける事になりましたが、ロケ中に体調を崩し、1970年に死去。映画の世界に革命をもたらした“特撮の父”は、68歳で永眠しました。
第4章「円谷プロの創設」
イギリスで発見された、J.O.スタヂオ製作による幻の音楽映画『かぐや姫』の海外向け短縮版についても紹介されています。
同作は、円谷が撮影を手がけた初期作品。美術には日本画家の松岡映丘が参加しています。この作品でも円谷は、キャメラマンとして蓄積してきた、多様な撮影技術を用いています。
「円谷と『かぐや姫』」のコーナー
国立映画アーカイブでは『かぐや姫』上映会も決定しました。9月4日(土)と5日(日)で計6回。8月27日(金)の10時から、全上映回の前売指定席券がチケットぴあで販売されます。売り切れ必須ですので、興味のある方はお早めに
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2021年8月13日 ]