「忘れられた浮世絵師」を再発掘する展覧会を、時おり開く
太田記念美術館。この項でも
歌川広景と
水野年方の展覧会をご紹介した事があります。
今回のターゲットは、幕末から明治にかけて活躍した落合芳幾。同時代の浮世絵師といえば、河鍋暁斎(3歳上)、月岡芳年(6歳下)、小林清親(14歳下)らが展覧会で人気を集める中、芳幾がやや遅れを取っている感は否めません。
本展では最初期から明治30年代の作品まで、芳幾の画業を通覧して紹介。当初は80点程度の予定でしたが、遥かに超えて、100点超のボリュームになりました。
芳幾は歌川国芳の門下生で、芳年は弟弟子。幕末までは、芳幾の方が芳年より人気がありました。「英名二十八衆句」は芳幾と芳年による競演で、歌舞伎や講談に登場する殺害場面を14点ずつ制作。芳幾を代表する作品です。
他にも武者絵、戯画、相撲絵、役者絵、美人画など、数多くのジャンルを手掛けた芳幾。芳年が描かなかった横浜絵も、芳幾は作っています。
他の浮世絵師と大きく異なるのが、実業家としての活動。芳幾は明治5年(1872)、山々亭有人や西田伝助とともに「東京日日新聞」(毎日新聞の前身)を創刊。浮世絵師の将来が読めない中、新しい路線にいったん舵を切ったのです。
文字ばかりの東京日日新聞から事件を拾い出し、絵画化した新聞錦絵もスタート。芳年も新聞錦絵を手掛けるなど、芳幾を意識するような動きをみせています。
実は、芳年は芳幾の事をあまり良く思っていなかったようで、新聞で成功した芳幾を批判する言葉も残しています。さかのぼると、師・国芳の葬儀の席で、芳幾は芳年を蹴飛ばした事があり(原因はささいな事でした)、それを恨んでいたのかもしれません。
晩年は不遇で、借金取りに追われる事もあった芳幾。明治23年(1890)以降、再び錦絵を手掛けるようになります。ただ、時代が変わったにも関わらず、さほど新しさを感じる作品が無いのも事実。この点は、芳年との差といえそうです。
本展を機に芳幾の再評価が進む事も期待したいと思いますが、おそらく芳幾単独の展覧会は、今後もなかなか開かれないと思います。会期は短めで、僅か3週間強です。お見逃しなく。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2018年8月2日 ]