日本人のファッションデザイナーとしていち早くパリに進出し、世界的に活躍した髙田賢三(1939-2020)。常識を打ち破る斬新なアイデアから生まれたスタイルで「木綿の詩人」「色彩の魔術師」と称された髙田の、没後初となる大規模展「髙田賢三 夢をかける」が東京オペラシティ アートギャラリーで開催中です。
「髙田賢三 夢をかける」会場入口
会場では、幼少期から学生時代、パリでの活躍や晩年まで、年代ごとに紹介しています。髙田の人生の転機となったのは1975年。電車の新聞広告で文化服装学院が男子学生の募集を始めた事を知り、上京。21歳で新人デザイナーの登竜門、第8回装苑賞を受賞します。
第8回「装苑賞」受賞作品 アンサンブル(ジャケット、スカート)、ブラウス、ベルト、帽子
三愛のデザイナーとして働いていた1964年、25歳の時に東京オリンピックに伴う再開発のため、アパートの立退料として受け取った家賃10ヶ月分でフランス行きを決めます。既製服メーカーでの仕事を得て、半年間パリにとどまりました。
1970年、31歳の時にグラフィックデザイナーの安西敦子や文化学園の同級生の協力を借りて、ブティックをオープン。日本の素材を使った最初のショーには、約150人が集まりました。
最初の展示室には、髙田賢三の代表作のひとつ、ウエディングドレスの「マリエ」が飾られています。髙田が約20年をかけて集めたリボン、全長200メートルを使用したもの。「花」をテーマにピンクの薄い生地に、20種類以上の花柄のリボンを縫い合わせた、手仕事の贅が尽くされたドレスです。
1982-1983秋 ドレス
1970年のデビュー当時から話題となっていたのが、しぼりやちぢみ、つむぎや浴衣地などの日本の生地を使ったデザインです。冬に木綿素材を使用するなど、新たな木綿の可能性を提案した髙田は、その後も素材を生かしたドレスやパッチワークを取り入れたデザインの探求を行います。
会場風景
会場には、1989年に西部・有楽町アートフォーラムで開催された「Liberte KENZO」のために制作されたマネキンも展示されています。これは、球体関節人形で知られる四谷シモンによってデザインされたもので、関節14か所が球体でできているため自由なポーズをとることができます。当時の展覧会では約90体が使われ、パリの街角を表現しました。
会場風景 手前は四谷シモンによるマネキン
KENZOブランドで代名詞のように人気があったのがニットです。大胆な柄にカラフルな色使いで、毎年異なるイメージのニットを発表していきました。
最初期の作品は、1970-1971年の秋冬コレクションの「ロンドン・ポップ」と名付けられたシリーズで、唇があしらわれたニットです。1971春夏コレクションに発表された猫のマークのニットは「マリン・ルック」で、黒地の短い袖が付いた作品は四角く平面的に編んであるのが特徴です。
会場風景
自由を求めて社会が大きく変化していった1970年代、ファッションにおいても多様性や新たな価値観が求められ、民族衣装にイメージを求めたスタイル「フォークロア」が潮流となります。
各国の民族衣装からインスピレーションを受けていた髙田は、無駄なく布地を使うことができる直線裁ちを取り入れ、立体裁断と平面裁断を融合。衣服を通じてボーダレス、ジェンダーレスの思想を体現しました。
会場風景
1975-76年の秋冬コレクションでは、チャイナドレスの細いラインをもとに考案した「中国ルック」を発表。角帯を締めるように着こなす腰巻きスカート「タイユ・バズ」スタイルは大流行しました。
会場風景 「中国ルック」
1980年代になると、パリでは身体のラインをはっきりと強調させたデザインが流行るとともに、川久保玲や山本耀司など次世代の日本人デザイナーがパリコレに参入し、「黒の衝撃」と呼ばれる革新的なコレクションが次々と発表されました。
しかし、髙田は自らの表現を熟成させることに専念し、柄と柄、色と色が激しくぶつかり合う、エネルギッシュな組み合わせでブランドらしさを表現しました。
会場風景
花柄は、平面的なものや、壁紙風、アフリカ風や日本のふとん柄と、花の形や配色がシーズンによって変わります。ジプシー をテーマにした1994年の春夏コレクションでは、スペインのフラメンコで伝統的に用いられるショール「マントン・デ・マニラ」をインスピレーションの源とした美しい花の刺繍を用いています。
会場風景
髙田は、90年代には宝塚をはじめ舞台衣装のデザインにも取り組んだほか、2004年のアテネオリンピックでは開会式の日本選手団の公式服装も手掛けています。2020年10月に惜しくも亡くなりましたが、会場全体で髙田賢三の生涯にわたる多様な創作活動を回顧することができます。
[ 取材・撮影・文:坂入 美彩子 2024年7月5日 ]