日本を代表する洋画家・小磯良平(1903~1988)と、日本画の大家・東山魁夷(1908~1999)。
ふたりは、ともに神戸で多感な青春時代を過ごし、多くの芸術家を輩出したことで知られる兵庫県立神戸第二中学校(現:兵庫県立兵庫高等学校)の同窓生でもありました。
1908(明治41)年、神戸二中は、神戸一中とわかれて、現在の地に創立されました。「質素剛健・自重自治」の校訓のもと、自由な校風で知られるその二中に、十回生として入学した小磯は、「本当に絵を描きはじめたのは中学生になって初めて迎える春」であったと後に回顧しています。二中では、長じて詩人となる終生の親友・竹中郁と知り合い、また後年、宗教画家となる田中忠雄に誘われて、神戸郊外へスケッチに出かけるようになりました。すでに小学校時代から美術教育を受けていた田中からは、少なからぬ刺激をうけ、活動的な竹中少年からは、川西英など神戸の画家たちを紹介されます。また、生家が貿易商の小磯は、兄から油絵具や、印象派や後期印象派の画集を贈られるなど、恵まれた環境にもありました。放課後のスケッチと、絵画を見る情熱で結ばれていた3人の少年たちは、これら周囲の年長者からの援助と、二中で教えを受けた図画の野崎恵教師の存在などもあり、「自重自治」のことばそのままに、それぞれの道を切り開いてゆきます。中学時代の終わり頃に美術学校進学を決めた小磯は、明石在住の洋画家・新井完にデッサンの手ほどきをうけ、念願の東京美術学校西洋画科へ進学を果たします。
東山魁夷は、十四回生として小磯の最終学年に神戸二中に入学しました。3歳で横浜から神戸に転居。小学生のときから画家になる夢をもっていた東山は、在学中は六甲や摩耶の山々、須磨の奥の池のほとりなどを訪れ、自然の中でひとり、スケッチを繰り返しました。油絵具を買ってもらい、独学で絵を勉強した東山は、画家になりたい気持ちを強くしますが、両親の反対にあい、ひとり悩んでいました。常々から東山をよく理解し、大阪や京都の美術展に連れて行ってくれていた二中の教師も、彼の悩みを知り、「絵に志さんとする子あり、母ありとてたじろぐ、神戸の子の前途は安らかなるかな、されどわが心 ために暗し」 という言葉をさりげなく書き残して、他校へ転任していきました。恩師の「画家になってほしい」との思いを受け止めつつ、両親の希望との板ばさみになっていた東山は、最後の w年の夏休み、思い余って担任のところへ相談に行きます。「やはり画家になりたいのです」と、涙をぽたぽた畳の上にこぼしながら訴える東山に、担任は「私がお父さんを説得する」と上半身裸で飛び出していき、驚いた東山が「先生、裸ですよ!」と引き止める一幕もあり、シャツを着て出直したこの熱血教師による、長時間の熱心な説得で、ついに父親が折れ、美術学校進学が許された、という逸話が残っています。東山はその後、小磯と同じ東京美術学校の日本画科に無事入学します。
その才能を見出し、育み、開花させた、二中の校風や愛すべき教師たちに思いをはせながら、ふたつの素晴らしい個性が、ひとつの会場で出会う稀有な機会をご堪能下さい。