秋田蘭画の中心人物が、秋田藩士の小田野直武(おだのなおたけ・1749-1780)。若い頃から画才豊かで、初期に描いた絵馬からも高い技術が伺えます。狩野派に学んだほか、浮世絵風の作品も伝わっています。
ただ、初期の作品は、さほど独自性は感じられません。直武の運命を変えたのが平賀源内との出会いでした。
第1章「蘭画前夜」平賀源内は、日本のダ・ヴィンチと称される多彩の人。江戸に派遣された直武は、源内との交友を通じて西洋の学問=蘭学に触れ、大いに刺激を受けました。
源内も直武の才能を認め、『解体新書』の挿絵を描くことに抜擢。教科書で知られる『解体新書』の表紙は、直武が描いたものです。
南蘋(なんぴん)派の影響も忘れてはなりません。長崎に来航した中国人画家・沈南蘋(しんなんぴん)がもたらした写実的な画風は、当時の画壇に大きな影響を与え、直武は南蘋派の宋紫石(そうしせき)から技法を学びました。
蘭学から西洋画を、南蘋派から東洋絵画を身に着けた直武。双方の特性を理解した上で辿り着いた先が、秋田蘭画でした。
第2章「解体新書の時代~未知との遭遇~」、第3章「大陸からのニューウェーブ~江戸と秋田の南蘋派~」展覧会のメインが、第4章の「秋田蘭画の軌跡」。直武や、秋田藩主の佐竹曙山(しょざん)、角館城代の佐竹義躬(よしみ)らによる秋田蘭画の傑作の数々が紹介されています。
佐竹曙山は第8代の秋田藩主。書画は武家の嗜みなので、絵が上手い大名もいますが、佐竹曙山は格別です。よほど絵が好きだったようで、日本で初めて西洋画論を書いたのもこの人です。佐竹義躬も絵画や俳諧に明るく、直武が角館出身という事もあって親しく交流していました。
写実的なモチーフ、強いコントラスト、奇妙な構図。美術史上の主流作品を見慣れた私たちからすると、どこか居心地が悪いようにも感じますが、これが秋田蘭画の最大の魅力です。
第4章「秋田蘭画の軌跡」「美術史上の主流」と書きましたが、逆に秋田蘭画は、美術史的には異端として終焉します。直武は謹慎を命じられ、32歳(数え)で死去。平賀源内も同じころに獄死、佐竹曙山も少し後に亡くなり、秋田蘭画の主要人物はいなくなってしまいました。
直武から学んだのは、司馬江漢。ただ江漢は、秋田蘭画の枠のみに留まらず、銅版画や油彩画まで手掛けています。
忘れられた秋田蘭画に再び光が当たったのは、20世紀になってからです。秋田生まれの日本画家、平福百穂(ひらふくひゃくすい)が「日本洋画曙光」を著した事で、ようやく再評価がはじまりました。
第5章「秋田蘭画の行方」展覧会サブタイトルの「世界に挑んだ7年」は、1773年に直武が平賀源内が待つ江戸に出てから、1780年に亡くなるまでの7年間。その輝きは短い期間でしたが、強烈な個性は現代の私たちにも響きます。
展覧会メインビジュアルの重要文化財《不忍池図》(秋田県立近代美術館蔵)は、12月12日(月)までの展示。描かれたポイント(上野・不忍池)は、最近ではミニリュウの巣(ポケモンGO)としても有名です。
※会期中に展示替えがあります。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年11月15日 ]■小田野直武と秋田蘭画 に関するツイート