2年前は同じ会場で「東京オリンピック1964 デザインプロジェクト」展が開催されましたが、今回は大阪万博がテーマ。担当は同じ東京国立近代美術館工芸課の木田拓也主任研究員です。
ある年代以上の人にとっては、鮮やかに記憶に残る大阪万博。今でもメディアで取り上げられる事がありますが、その多くは《太陽の塔》など実際に作られたものの紹介にとどまっています。本展では実現しなかった事も含めて、大阪万博開催までのデザインのプロセスに着目している事が特徴的です。
展示室入口から
「実現しなかったもの」のひとつが、西島伊三雄による公式シンボルマーク。指名コンペを経て選ばれましたが、万博協会の石坂泰三会長が「(上部の円を日の丸に見たてて)日本はいばってやがるという批判を受ける」と反発。再度行われた指名コンペで、大高猛のデザインが選ばれました。
東京五輪で好評だったピクトグラムは、万博でも用いられました。福田繁雄は「迷子」や「モノレール」のピクトを新たに考案。展示されたスケッチからも、決定までのプロセスがうかがえます。
公式ポスターは第1回指名コンペで亀倉雄策の案が選定。細谷巖、石岡瑛子、永井一正らも関わり、開幕までに7種類が作られました。
第1章「万国博覧会を成功させよう プロモーションとデザインポリシー」
大阪万博のテーマ「人類の進歩と調和」を象徴的にあらわす場所が「お祭り広場」でした。丹下健三が大屋根を設計しましたが、屋根がなかった構想段階のプランも紹介されています。
開場の基本計画が固まったのは1966年。敷地の造成が終わったのは68年3月で、開幕までの2年間で外国館53、国内館32のパビリオンが建設されました。
パビリオンは撤去される事が規定で決まっているため、閉幕後に解体。保存されていたエキスポタワーも2003年に解体されたため、現在にその姿を伝えるのは《太陽の塔》などごく僅かです。
第2章「未来都市の実験場」
大阪万博には莫大な予算が投じられたため、デザイナーはいつもは経験できないようなスケールの大きな仕事に関わる事ができました。
上から見るとシンボルマークのようにデザインされた日本館(日本政府館)は河野鷹思、田中一光、高村英也、古畑多喜雄、粟津潔、中村真、田村倫昭らが展示基本プランを作成。横尾忠則がディレクションしたせんい館は、工事を途中で止めたかのような外観で異彩を放つなど、会場では若いデザイナーが個性をぶつけ合いました。
木村恒久は「矛盾の壁」と題するフォトモンタージュで、原爆投下直後の広島・長崎の記録写真をもとに作品を作りましたが、開幕1カ月前に政府から意見が出されたため急遽変更。色彩が強調されて、悲惨な内容は目立たなくなりました。
第3章「デザイナーにとっての大阪万博」
動員した6000万人は、ディズニーランド・シーの丸二年分。「反博」として万博に反対した美術家たちもいましたが、国家が一丸となった熱狂は少し羨ましく思えます。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2015年3月25日 ]