優美な女性像で知られるチェコ出身の画家、アルフォンス・ミュシャ(1860-1939)。19世紀末から20世紀初頭にヨーロッパで花開いたアール・ヌーヴォーを代表する存在で、今でも世界中の人々を魅了し続けています。
ポスター、装飾パネルをはじめ、デザイン集、ポストカード、切手、紙幣、商品パッケージなど多様な作品で、ミュシャの世界を網羅的に紹介する展覧会が、茅ヶ崎市美術館で開催中です。
茅ヶ崎市美術館「アルフォンス・ミュシャ展 アール・ヌーヴォーの美しきミューズ」
アルフォンス・マリア・ミュシャは、1860年、オーストリア=ハンガリー帝国領モラヴィア(現在のチェコ)生まれ。27歳でパリに渡って絵画を学びましたが、留学の援助を打ち切られ、雑誌や本の挿絵で生計を立てることになりました。
ミュシャの運命を変えたのが1894年、34歳の年末に舞い込んだ仕事です。時の大女優、サラ・ベルナール主演の舞台「ジスモンダ」のポスターを手がけたところ大評判になり、一躍、時代の寵児になりました。
アルフォンス・ミュシャ《椿姫》1896年 / アルフォンス・ミュシャ《ジスモンダ》1895年
19世紀に成熟したリトグラフ(石版画)の技法は、ポスターや印刷物の分野に大きな変化をもたらしました。
ミュシャはリトグラフで装飾パネルを制作。1点物の絵画を買うことができない一般市民の間で大評判となり、ミュシャの人気はさらに高まったといえます。
アルフォンス・ミュシャ 4連作『四季』1896年 (左から)《冬》《秋》《夏》《春》
展示は地下に続きます。
ミュシャは1902年に『装飾資料集』を出版。アール・ヌーヴォー様式の教科書ともいうべきこの図案集は好評を博し、3年後の1905年には、人物画集『装飾人物集』を出版しました。
多くの作例を収めたこの書籍を、ミュシャは「誰もが自分の望むものを完成した形で見つけ出せる」と語っています。当時の画学生にとっては、バイブルといえる書籍でした。
アルフォンス・ミュシャ《装飾資料集》1902年
活動の初期は挿絵で生計を立てていたミュシャ。やむを得ずはじめた仕事でしたが、優れたデッサン力とドラマチックな構成で、小さな画面でも見事な作品を制作しています。
ミュシャは、当時流行した雑誌の表紙も数多く手がけており、優美なミュシャ・スタイルの女性たちが誌面を彩りました。
アルフォンス・ミュシャ 書籍「舞台衣装」イザナミとサクマの舞台衣装 1890年
ミュシャはポスターや装飾パネルなどにとどまらず、商品パッケージ、ポストカード、当時流行した絵入りのメニュー、カレンダー、室内装飾など、さまざまなものに作品を提供しています。
多くの分野に作品が見られるということは、大衆がミュシャを求めていたことを示しています。まさにミュシャは、ベル・エポック(良き時代)のパリを象徴する存在だったといえます。
アルフォンス・ミュシャ《ショコラ マッソンのカレンダー》1897年
パリで人気を博したミュシャですが、祖国チェコとスラヴ民族への思いを持ち続けていました。
ミュシャは後半生の全てを捧げることとなる大作《スラヴ叙事詩》の制作資金を集めるためにアメリカに渡り、肖像画やポスター、挿絵など精力的に活動。
シカゴの実業家で富豪のチャールズ・クレインというスポンサーを得ることに成功しました。
アルフォンス・ミュシャ「ハースト・インターナショナル」1922年(12月のみ1921年)(上段左から)《3月》《2月》《1月》《12月》(下段左から)《7月》《6月》《5月》《4月》
1910年にチェコに戻ったミュシャは、歴史画の大作《スラヴ叙事詩》の制作に着手。1928年に全20点からなる作品を完成させました。生涯を掛けたこの大作は、プラハ市に寄贈されています。
一方でミュシャは、1918年に独立を宣言した新生チェコスロヴァキア共和国の新政府から、切手、紙幣、国章から警察官の制服にいたるまで多くの仕事を依頼されています。そのほとんどを無償で引き受けています。
アルフォンス・ミュシャ《イヴァンチツェの地方祭》1913年
無名のミュシャは、急遽手がけた《ジスモンダ》のポスターでスターダムに躍り出た、というのが定説ですが、実はそうとは言い切れないことを示す資料も、本展で紹介されています。それは何なのかは、ぜひ会場でご確認ください。
展覧会は尾形寿行氏が所蔵するミュシャ作品「OGATAコレクション」を紹介する企画展。「ミュシャの魅力を多くの人に発信してもらいたい」という尾形氏の思いもあり、全作品が撮影自由です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2024年6月22日 ]
※作品はすべてOGATAコレクション