日本美術史を代表する画家の一人、雪舟(1420~1506?)。雪舟は6件の作品が国宝に指定されており、この数は個人としては最多(2位は狩野永徳の4件)。まさに「画聖」と称されるに相応しい存在です。
では、なぜ雪舟がこれほど高く評価されているのか。主に近代の雪舟受容史をたどりながら、「画聖」雪舟の誕生を探る展覧会が、京都国立博物館で開催中です。
京都国立博物館 特別展「雪舟伝説」
公式サイトに「『雪舟展』ではありません!」と大きく書かれていますが、やはり雪舟の作品が見たいと思う方、ご安心ください。
展覧会の冒頭、第1章「雪舟精髄」には雪舟による国宝6件が勢揃い。会期中いつ行っても、6作品全てが鑑賞できる、夢のような展示空間です(山水長巻のみ、会期中巻き替えあり)。
(左から)重要文化財《四季花鳥図屏風》雪舟筆 室町時代(15世紀)京都国立博物館[全期間展示] / 国宝《天橋立図》雪舟筆 室町時代(16世紀)京都国立博物館[全期間展示]
かつては雪舟作として知られ、大きな影響力をもちながら、現在では雪舟の作品ではないとされているものもあります。
こちらの《富士三保清見寺図》も、そのひとつ。明の文人・詹仲和の賛があることから、かつては明で雪舟が描いたとみなされていましたが、現在では古模本と結論づけられています。ただ、この構図は富士山図の定型となり、多くの後継作品が生まれました。
《富士三保清見寺図》伝雪舟筆 詹仲和賛 室町時代(16世紀)永青文庫[全期間展示]
桃山時代に雪舟の画風を継承、再生させたひとりが、雲谷等顔です。
等顔は雪舟に師事したわけではありませんが、等顔の《山水図襖》を見ると、モチーフ、描法ともに雪舟による《四季山水図巻(山水長巻)》を参照して描いたことは明らかです。
等顔は、毛利家から雲谷庵(雪舟のアトリエ)と山水長巻を拝領しており、名実ともに雪舟流の後継者として活躍しました。
(左から)《四季花鳥図屛風》雲谷等益筆 江戸時代(17世紀)京都・東福寺[全期間展示] / 重要文化財《山水図襖》雲谷等顔筆 桃山時代(16〜17世紀)京都・黄梅院[全期間展示]
等顔と同時代に活躍した長谷川等伯も、雪舟流の後継者を自称しました。
《竹林七賢図屏風》では「自雪舟五代」(雪舟より五代)として、自ら雪舟の後継者と名乗っています。またこうした名乗りは、一種の権威として機能したとも考えられます。
《竹林七賢図屏風》長谷川等伯筆 桃山時代 慶長12年(1607)京都・両足院[全期間展示]
雪舟が神格化されるにあたり、最も大きな役割を果たしたのが狩野探幽です。
探幽は雪舟の作品を学びながら自らの画風を形成し、そのスタイルが狩野派の基礎となることで、雪舟画も継承されていきました。
長福寺の《山水図屏風》は、探幽がまだ「采女」と称していた若い頃の作品。描法は明らかに雪舟に学んだものです。
《山水図屏風》狩野探幽筆 江戸時代(17世紀)京都・長福寺[全期間展示]
江戸時代には、現在知られているよりずっと多くの「雪舟画」があり、これらも含めて、雪舟の画家像が形成されていきました。
《探幽縮図 雪舟像》は、雪舟が71歳の時に描いた自画像を写した縮図です。比較的近い時期に、複数の作品が制作されていることから、この頃、雪舟への関心が高まっていたことが分かります。
《探幽縮図 雪舟像》狩野探幽筆 江戸時代 寛文2年(1662) 京都国立博物館[全期間展示]
さまざまな人々が雪舟について語った言葉でも、雪舟の存在感は高まっていきました。
狩野永納の《本朝画史》は、日本で初めてといえる体系的な美術史の著作。雪舟の伝記に多くの分量を割いているこの本は、江戸時代を通じて広く読まれました。
柱にしばられた少年時代の雪舟が、足の指を使い、こぼれた涙でネズミを描いたというマンガのようなエピソードも記されています。
(左手前)《本朝画史》狩野永納編 江戸時代 元禄6年(1693)刊 京都国立博物館[全期間展示]
雪舟の名前は、なんと春画にも登場します。
勝川春章による《初宮参図巻》は、見合いから始まって、婚礼、出産、初宮参りまでを描く春画巻。寝室は高位の武家と思しき屋敷の床の間には、《破墨山水図》を思わせる掛け軸が掛けられ、脇に置かれた箱蓋には「雪舟筆」と記されています。
雪舟の画は、一種のステータスシンボルになっていたのです。
《初宮参図巻》勝川春章筆 江戸時代(18世紀)北海道・似鳥美術館[全期間展示]
時代を経るにつれて神格化が進んでいった雪舟。「雪舟」という名は、他の画家とは全く違う意味を持っていることが、改めて実感できます。京都国立博物館だけでの開催となります。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2024年4月12日 ]