「手彩色(てさいしき)写真」をご存じでしょうか? 幕末・明治期の色がついた写真ですが、この時代にはカラーフィルムは普及していません。これらの写真は、モノクロ写真に絵付師が1点ずつ手作業で色をつけたものです。
主に外国人の土産物として販売され、わずかな期間で市場から姿を消した手彩色写真の魅力を紹介する展覧会が、神戸市立博物館で開催中です。
※会期中に一部作品の展示替えを行います。掲載作品は全て通期展示。
神戸市立博物館 特別展「Colorful JAPAN―幕末・明治手彩色写真への旅」
日本に手彩色写真が広まったのは、イタリア生まれのイギリス人写真家、フェリーチェ・ベアトからとされています。やがて日本人の写真家も参入し、明治20年代(1887-1896)には全盛期を迎えました。
そのベアト以来、和装の女性客を乗せた駕籠の写真は、非常に好まれた題材でした。こちらの写真には背景に富士山が見えますが、これはスタジオに設置した書き割りの背景。足元には小石を散りばめ、垣根などの小道具を置くなど、演出も凝っています。
《C91 「SEDAN CHAIR」》明治時代 ピエール・セルネ氏蔵
手彩色写真は、しばしば豪華な蒔絵表紙のアルバムに綴じ込まれて販売されました。
《日本名所風俗写真帳2》は、蒔絵アルバムの一例です。表紙は、横浜の写真家・水野半兵衛が開発した「蒔絵写真」という珍しい技法により、写真が印刷されています。
(右手前)《日本名所風俗写真帳2》明治時代中期〜後期 神戸市立博靿館
手彩色写真は外国人に販売することを目的にしているため、「日本ならでは」と感じられる題材が好まれました。
刺青は、外国人が最も興味をもった日本の風習の1つです。当時の日本では、飛脚や駕籠かき、火消、大工などが好んで派手な柄の刺青を入れており、多くの写真家が刺青姿の男性の写真を販売しています。
《153 「JAPANESE TATTOO」》日下部金兵衛 明治時代中期 ピエール・セルネ氏蔵
[ぽん太とおえん]は、写真家としても著名な大富豪、鹿島清兵衝が愛した芸者ぽん太(左)と、清兵衛の弟・清三郎が愛した芸者おえん(右)を写したもの。
着物の柄が引き立つように、パステル調の色で丁寧に彩色されています。
《A152[ぽん太とおえん]》深見真影堂 明治時代中期〜後期 ピエール・セルネ氏蔵
こちらの写真は、文字通り満面の笑みが特徴的。芸者と思われるモデルで、時おり手彩色写真の中に登場します。
どの写真でもはじけるような笑顔を見せている彼女に対し、古写真収集家の石黒敬章氏は「笑子」と名付けています。
《[笑顔の女性]》明治時代 ピエール・セルネ氏蔵
明治32年(1899)の条約改正まで、訪日外国人の移動には制限が課せられていたため、各地の名勝を見て回ることは、簡単なことではありませんでした。
手彩色写真なら、珍しい風景を、目で見たままの色、あるいはそれより美しい色で手元に残すことが可能です。
《A40「KARAMON GATE(SHINTO)TEMPLE NIKKO」》明治時代中期〜後期 ピエール・セルネ氏蔵
通常の約4倍のサイズで作られた大判の写真には、雄大な富士山が。いかにも外国人を意識した写真です。規格外の大きさのため、価格も通常の10倍でした。
人々はカメラ目線で、一番手前の人々は着物に和傘をさしていることもあり、偶然居合わせた人ではなく、撮影のためのエキストラだと思われます。
《2001「FUJIYAMA FROM OMIYA VILLAGE」》日下部金兵衛 明治時代中期 東京都写真美術館
展覧会の最後には、特に美しく彩られた2点を紹介。ともに作者は不詳ですが、細部まで丹念に彩色されています。
明治22年(1889)からはコロタイプ印刷が普及。明治33年(1900)には私製絵葉書も認可されると、手彩色写真は市場から消えていくこととなりました。
(右手前)《[太夫]》明治時代 ピエール・セルネ氏蔵
巧みな構図と美しい彩色が魅力的な手彩色写真。時には実物以上に「盛った」写真は、外国人が求める「JAPAN」のイメージをつくりあげていきました。
120年ほど前の写真ですが、彩色されているからこその活き活きとした姿も印象的です。少しタイムスリップしたような気分にもなれる、楽しい展覧会です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2024年3月29日 ]