さいたま市岩槻生まれの画家、田中保(1886-1941)。シアトルで絵を学び、パリでは肖像画や裸婦像で人気を集めますが、生前に日本の画壇から受け入れられることはありませんでした。
館蔵品に他館からの借用作品も加え、田中の画業を俯瞰する大規模な回顧展が、埼玉県立近代美術館で開催中です。
埼玉県立近代美術館「シアトル→パリ 田中保とその時代」
9人兄妹の四男として生まれた田中。旧制浦和中学に在学中に父が亡くなり、生活のために家を離れざるを得ませんでした。
当時は日本からアメリカへの移民がピークを迎えていた時代。18歳でシアトルにわたった田中は、農業、皿洗い、ピーナッツ売りなどをしながら、画家を目指していくことになります。
(左から)田中保《黒シートの裸婦》1915年頃 埼玉県立近代美術館 / 田中保《ガウンをはおる婦人》1915年頃 埼玉県立近代美術館
田中は1914年頃から画家としての地位を確立。さまざまな画風を取り入れながら、自らの方向性を模索していきました。
《マドロナの影》は、1915年のパナマ・パシフィック万国博覧会で入選するなど、高く評価された作品です。
自身の芸術の理解者だった美術批評家、ルイーズ・ゲブハード・カンと結婚。ただ、当時は異人種間の結婚はタブー視されていた時代で、この結婚はアメリカ各地でスキャンダラスに報じられました。
田中保《マドロナの影》1914年 うらわ美術館
田中はシアトル時代にさまざまな肖像画も描いています。《腰掛ける男》は、北極圏の北アメリカを探検したヴィルヒャムル・ステファンソンを描いた作品です。
順調に画家としてのキャリアを積む一方で、外国人であることを理由に出品を断られるなど、田中は徐々にアメリカでの活動に行き詰まりを感じるようになります。
1920年、新天地を求めて田中夫妻はパリに渡りました。
(左)田中保《腰掛ける男》1919年 学校法人佐藤栄学園
パリに移住した田中は、さっそく秋のサロン・ドートンヌに出品するなど、精力的に活動します。
1923年にはモンパルナスにアトリエを構え、藤田嗣治ら日本人美術家とも交流。ただ、深い付き合いには至らなかったようです。
(左から)田中保《毛皮のコートをきて腰かけている女》1925-30年 埼玉県立近代美術館 / 田中保《黄色のドレス》1925-30年 埼玉県立近代美術館 / 田中保《青いコートをきて腰かけている女》1925-30年 株式会社埼玉りそな銀行 / 田中保《窓辺の婦人》1925-30年 埼玉県立近代美術館
1924年にはフランス政府と松方幸次郎が作品を買い上げ。当時、パリに滞在していた朝香宮と東久邇宮も作品を購入するなど、田中は画業の頂点を迎えます。
田中は帝展への出品を目指して日本に作品を送るも、1923年は関東大震災のため帝展は中止。翌年は東久邇宮の後押しがあったにも関わらず、なんと落選という憂き目にあいます。
日本で美術教育を受けていなかった田中。いくら海外で人気を得ても、田中は日本の美術ヒエラルキーの外にいる美術家でした。落選の報を受け、田中は悲嘆にくれました。
田中保《裸婦》1924年 埼玉県立近代美術館
日本での活躍を諦めた田中は、フランスでの活動に専念します。以後もサロンに出品を重ねるなど、旺盛に制作を続けました。
1929年の世界恐慌でパリにいた日本人画家の多くは帰国しますが、田中はパリに留まりました。装飾美術への関心も高まっていたようです。
1941年に54歳で死去。18歳の渡米から、ついに一度も帰国することはありませんでした。
(左から)田中保《3人の娘たちのいる風景》1925-30年 株式会社埼玉りそな銀行 / 田中保《海の近く》1928年頃 株式会社埼玉りそな銀行
田中の画業は1970年代半ばから再評価されるようになりましたが、今でも研究は道半ばといえます。
例えば、田中が帰国しなかったのも、これまでは「海外で成功したので帰国する必要がなかった」と考えられていましたが、この展覧会では「帰国を望んでいたにも関わらず、時代と社会に翻弄されて果たせなかった」としています。
埼玉県立近代美術館では25年ぶりとなる回顧展です。お楽しみください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2022年7月16日 ]