戦前から戦中にかけて、さまざまな分野で国家による統制がとられていた日本。美術にもその波は及び、1930年代後半に最盛期を迎えた前衛画壇も表現が変化していきました。
東京と京都の画壇の動きに目を向けながら、この時期の作品を紹介する展覧会が、板橋区立美術館で開催中です。
板橋区立美術館入口
展覧会は5章構成、第1章は「西洋古典絵画への関心」です。
日本の絵画の主導者といえるのが、福沢一郎です。1931年にフランスから帰国した福沢は、日本社会を風刺するような作品を制作しましたが、そのモチーフは日本や西洋の古典でした。1937年の《女》は、マザッチオの壁画《楽園追放》からの引用です。
福沢のアトリエに通っていた小川原脩と杉全直も、1940年頃から西洋の古典絵画に接近します。これは、1937年の日独伊防共協定締結の頃から、日本でルネサンスに関する紹介が盛んになったこととも関係していると思われます。
福沢は共産主義との関連が疑われて、1941年に逮捕。以後、日本の前衛画家たちの活動は萎縮していく事になります。
(左から)福沢一郎《花》1938(昭和13)年 多摩美術大学美術館 / 福沢一郎《女》1937(昭和12)年 富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館
(左から)杉全直《沈丁花》1942(昭和17)年 うらわ美術館 / 小川原脩《沈丁花》1942(昭和17)年 うらわ美術館
第2章は「新人画界とそれぞれのリアリズム」。新人画会は靉光、麻生三郎、糸園和三郎、井上長三郎、大野五郎、鶴岡政男、寺田政明、松本竣介の8名が1943年に結成しました。
銀座の画廊で静物や人物、風景などの作品を発表した新人画会。戦時中に戦争と関係のない絵画を展示する事は、異例といえます。
靉光による《静物(雉)》は1941年の作品です。この頃、靉光は同じようなモチーフを墨でも描いており、西洋と東洋の技法で自分にあう手法を模索していました。ただ、靉光は1944年に召集され、上海で戦病死しています。
寺田政明も新人画会に参加。以前はフォービスムやシュルレアリスム風でしたが、1940年頃からは暗闇に包まれるような画面に変化しています。
(左から)靉光《花と蝶》1941-42(昭和16-17)年 練馬区立美術館 / 靉光《静物(雉)》1941(昭和16)年 東京都現代美術館
(左から)寺田政明《芽》1938(昭和13)年 板橋区立美術館 / 寺田政明《静物》1942(昭和17)年 練馬区立美術館
第3章は「古代芸術への憧憬」。1937年に結成された自由美術家協会は、抽象美術が中心的でしたが、ここでは画家たちの間に共通していた「古典」や「古代」芸術への憧憬に注目します。
同会の中心的な存在だったのが長谷川三郎。《都制》は京都の碁盤の目の街並みのよう。《新聞コラージュ》も、龍安寺の石庭をイメージさせるという見方があります。
同会に所属した難波田龍起は、1935年頃から古代ギリシアをテーマに制作しました。1940年以降は日本の仏像や埴輪をモチーフとし、ギリシア彫刻にも劣らない美と生命感を見出したといいます。
(左から)難波田龍起《ニンフの踊り》1936(昭和11)年 板橋区立美術館 / 難波田龍起《ヴィナスと少年》1936(昭和11)年 板橋区立美術館
(左から)長谷川三郎《新聞コラージュ》1937(昭和12)年 学校法人 甲南学園 長谷川三郎ギャラリー / 長谷川三郎《都制》1937(昭和12)年 学校法人 甲南学園 長谷川三郎ギャラリー
第4章は「『地方』の発見」。1941年の福沢一郎と瀧口修造の検挙を受け、前衛画家たちはシュルレアリスムとは異なる絵画のあり方を模索していく事となります。
福島県生まれの吉井忠は、東北各地を取材旅行。自然や人々、そして各地の暮らしの中に、自身を突き動かす「新らしい」モチーフを見出しました。各地で描いたスケッチは、後に《毛馬内風景》などの油彩作品へと結実しています。
(左から)吉井忠《毛馬内風景》1943(昭和18)年 福島県立美術館寄託 / 吉井忠《鋤踏み》1943(昭和18)年
最後の第5章は「京都の『伝統』と『前衛』」。京都では、北脇昇らが中心になって設立された独立美術京都研究所と、その有志で結成された新日本洋画協会が、前衛では中心的な存在でした。
第3回新日本洋画協会では北脇の考案により、画家14名による集団制作《浦島物語》を展示。北脇による「集団制作(浦島物語)設計書」に基づき、それぞれが与えられた「命題」を描いた作品です。
北脇と小牧源太郎は、創紀美術協会と、続く美術文化協会にも京都から2名で参加。京都での前衛の動きを牽引していきました。
(左から)北脇昇《非相称の相称構造(窓)》1939(昭和14)年 東京国立近代美術館 / 北脇昇《竜安寺石庭測図》1939(昭和14)年 東京国立近代美術館
共同制作《浦島物語》1937(昭和12)年 京都市美術館 (左手前)小牧源太郎《郷愁を訴ふ(倦怠)》1937(昭和12)年 京都市美術館
一般的には「弾圧により変容した」とされる事が多い、この時代の前衛美術。もちろん、福沢の検挙などが創作に対する大きな圧力になった事は確かですが、時代の中で自分の表現を模索し、古典にその立ち位置を求めていった美術家たちは、迫害に屈した弱者ではなく、むしろ逞しさすら感じます。
展覧会のビジュアルが作品ではなく人の名前で構成されているのは、多くの作家がそれぞれの道を求めていったから、との事。さまよいながらも、絵筆を手放す事だけはしなかった美術家たちの矜持を感じてください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2021年3月30日 ]