江戸時代の14代将軍、徳川家茂の正室・和宮。幕末の混乱の中、「公武合体」という理由があるにせよ、皇女である和宮と将軍家の婚姻は、異例中の異例といえる出来事でした。
江戸に嫁いだ和宮は、何を見て、どのようなものに触れ、どんな暮らしをしていたのか。ゆかりの品々を紹介する展覧会が、江戸東京博物館で始まりました。
「和宮 江戸へ ― ふれた品物 みた世界 ―」会場入口
徳川記念財団が協力して実現した本展。冒頭のプロローグには、和宮の婚礼道具としてつくられた茶碗などが並びます。
和宮は仁孝天皇の皇女で孝明天皇の皇妹。将軍と皇女の婚姻としては、霊元天皇の皇女・八十姫も7代家継と婚約しましたが、結婚する前に家継は亡くなっているため、実際に降嫁したのは和宮だけです。
(左から)和宮所用《銀葵葉菊紋散花桐唐草 茶碗・茶台》江戸時代末期 東京都江戸東京博物館 / 和宮所用《村梨子地葵葉菊紋散花桐唐草蒔絵 茶碗・茶台》江戸時代末期 東京都江戸東京博物館 / 和宮所用《菊紋亀甲菊染付 茶碗・銀葉菊紋散花桐唐草 茶台》19世紀 德川記念財団[すべて全期間展示]
展覧会の第1章は「決意の下向」。和宮の父・仁孝天皇は、和宮が出生する前に死去。「和宮」の名は、兄の孝明天皇が名付けました。
4歳の時に有栖川宮熾仁親王と婚約した和宮ですが、激動の幕末期に幕府の権威が失墜する中、公武合体論が台頭。有栖川宮との婚約は破棄され、和宮は家茂のもとへ嫁ぐ事となります。
《和宮江戸下向絵巻》には、鴨川を渡る和宮の車の行列が。江戸に下る和宮の哀しさがあらわれているような描写です。
関行篤 詞書《和宮江戸下向絵巻》文久2年(1862)東京都江戸東京博物館[展示期間:1/2~1/31]
第2章は「背の君 徳川家茂」。家茂は紀伊徳川家の出身、和宮とは同い年です。13代家定の次の将軍をめぐる一橋派と南紀派の争いの末、13歳で将軍になりました。
家茂と和宮が結婚したのは16歳の時。時代の波に翻弄されて夫婦になったふたりですが、仲は睦まじく、和歌や簪などを贈りあうほど。手紙のやりとりも欠かさず、会場にも互いを思いやる手紙が展示されています。
ただ、家茂は21歳で早世。和宮との結婚生活は、わずか4年あまりに終わりました。
川村清雄 筆《徳川家茂像》明治17年(1884)頃 德川記念財団[全期間展示]
徳川家茂所用《石文具》19世紀 德川記念財団[全期間展示]
最も華やかなコーナーが第3章「調えられた品々」。和宮が実際に使った調度品などが並びます。
降嫁に際し、和宮は中山道を下りましたが、婚礼道具は東海道を17日かけて運ばれました。
京都では御所風の暮らしを送っていた和宮。江戸に嫁いだ事で、大奥で武家風の生活様式と和合し、文字通りの「公武合体」を成し遂げたといえます。
(左から)和宮所用《金糸竹虎文様 懐紙挟・煙草入・煙管入》19世紀 德川記念財団[展示期間:1/2~1/31] / 和宮所用《鼈甲かんざし》19世紀 德川記念財団[全期間展示] / 和宮所用《朱地波に鶴・蜻蛉に蝶金銀彩 蝙蝠扇》19世紀 德川記念財団[展示期間:1/2~1/31]
和宮所用《葵葉菊紋散婚礼調度 村梨子地葵葉菊紋散花桐唐草蒔絵 眉作箱》19世紀 東京都江戸東京博物館[全期間展示]
エピローグには、和宮所蔵と伝わる《浅葱縮緬地松竹梅桜菊網干文様 小袖》が。海辺を舞台にした謡曲や古典文学に取材した文様とみられます。
夫に先立たれた和宮ですが、戊辰戦争では徳川家存続のために奔走。明治維新後も、皇室、徳川家ともに親しく交わりながら、平穏な生活を送りました。和宮も32歳で早世、家茂と同じ増上寺に葬られています。
伝和宮着用《浅葱縮緬地松竹梅桜菊網干文様 小袖》19世紀 德川記念財団[展示期間:1/2~1/31]
家茂と和宮の物語はドラマなどでもしばしば描かれますが、実際に使われた品々を見ると、現実味が増して迫ってきます。歴史ファンにはたまらない展覧会です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2020年12月25日 ]