明治期に外貨獲得の手段として機能した日本の工芸。繊細な細工は欧米で高く評価されましたが、高度な技術の競い合いは職人の腕比べに陥りつつありました。
専門家による分業ではなく、発想から製作まで自分で手掛ける「自由な工芸」を目指した藤井達吉。その活動範囲は極めて広く、七宝、刺繍、染色、金工、木工、陶芸、手漉き和紙など工芸全般はもとより、日本画、墨画、油彩画、木版画、装丁まで手掛けています。
「工芸家が同時にそれ自身が画家でもあり、建築家、彫刻家でもある」ことは、藤井の理想でした。
会場藤井の作品は、絵画や工芸という分類が困難です。例えば《草木図屏風》は、板に彫刻したあとに螺鈿、七宝、鉛象嵌をほどこして、着彩したもの。ナビ派のような《大島風物図屏風》は、絣の生地をそのまま貼ったり、輪郭に紐を縫い付けたりして伊豆大島の風景を描いたものです。
ジャンル分けについて、自ら「元来が分類すべからざるもの」と述べていた藤井。過去にとらわれない「総合芸術としての工芸」を目指しました。
順に《草木図屏風》、《大島風物図屏風》藤井は大正後半から昭和にかけて日本画も多く手掛けており、再興院展にも出品しています。正規の美術教育を受けていないにも関わらず院友に推挙されており、画家としても確かな力量を持っていました。
ただ、その技量をストレートには主張せず、人をくったような作品が多いのも特徴的。最たる例が晩年に描いた《土星》で、真正面から土星を描いた掛軸など、ほとんど見た事がありません。土星や星には金箔を用いており、イラストなどではなく、きちっとした純粋美術として描かれたものです。
《土星》同じような志をもって同時代に活躍した富本憲吉、津田青楓、バーナード・リーチ、高村豊周らと比べても、藤井達吉の知名度は高いとはいえません。
理由のひとつが、作品がまとまっていなかった事。特に藤井の活動において重要な期間である大正末期から昭和初期の作品があまり知られていませんでしたが、2008年に
碧南市藤井達吉現代美術館(愛知県)が開館。近年になってまとまったコレクションが次々に明らかになり、ようやく活動の‘全貌’が分かってきました。
10年前では間違いなく実現できなかった展覧会と言えます。
会場さまざまな草花を描いた茶室の天井画も、近年になって展示できるようになったもの。藤井の後援者が自宅に茶室を建てる際に依頼されて描かれたものです。描かれた草花は園芸種の植物ではなく、庭や道端など生活空間で目にすることができる植物。粉本主義を糾弾し、自然の観察から学ぶ事を強く訴えていた藤井らしさが伝わります。
藤井の作品は保存状態が良くないものが少なくありません。赤い樹木が描かれた《郵便箱》も所蔵者がつい最近まで使っていたもので、周りの汚れも生々しく見えます。ただ、藤井は「生活の芸術化」という意識を強く持っていたので、「手垢にまみれた器」は、藤井の望みどおりともいえます。
順に《草花図(茶室天井画)》、《郵便箱》藤井は婦人向け雑誌の仕事にも積極的に関わり、「主婦之友」誌に寄稿するなど家庭手芸品製作の伝道者としても活躍しました。その活動について同時代の工芸家・高村豊周は「(藤井の連載がもしなかったら)日本の家庭手芸はどの位発達が遅れたであろうか、想像するに難くない」と、高く評価しています
宇都宮美術館、
岡崎市美術博物館と巡回し、
渋谷区立松濤美術館が最後の会場。その工芸は‘超絶’ではありませんが、強い意思が宿っています。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2014年6月9日 ]