西洋美術における「素描」は、イタリア・ルネサンスの美術理論家であるヴァザーリ(Giorgio Vasari)が「三つの芸術(絵画、彫刻、建築)の父」と語るように、あらゆる造形芸術の基礎をなすものとみなされてきました。すなわち素描は、芸術家が自然を写し取る技術であり、同時に、芸術家の創意の発露であり、芸術作品を作り上げるための基礎的な想像力を示すものと考えられていたのです。そしてルネサンス以降の素描には、完成作のための下描きという補助的な位置づけを超え、それ自体に芸術としての価値が付与されるようになったのです。
芸術としての素描は、時代が下がると、さらなる多様性に満ちた発展を遂げます。17世紀のネーデルラントでは、描かれる対象は、人物像や構図スケッチのみならず、屋外風景や静物も含まれるようになり、さらにそれらは、完成作のための「下描き」としてのみならず、芸術家のアトリエにおいて、種々のモチーフを描いた「型見本」として制作時に活用されるとともに、弟子たちの訓練のための「教育手本」として利用されました。素描の重要性を認める教養の高い美術愛好家によって収集が行われるようになりました。芸術家の制作現場という本来のコンテクストから離れた素描は、コレクターのマニアックな美術趣味を刺激する、知的な「コレクターズアイテム」としても受容されるようになったのです。
日本国内では近来、西洋美術の大型展覧会が実施され、重要な芸術家の作品がしばしば展示・公開されることがありますが、所蔵館を訪問すれば鑑賞する事が可能です。しかし、素描および版画は、紙という支持体の脆弱さゆえに、所蔵館においても常設展示することは不可能であり、ましてオールドマスターの主要素描が体系的に紹介される機会は僅かであります。東京藝術大学大学美術館で行う本展覧会は、鑑賞者にとって文字通り得がたい機会となるでしょう。