KNG-UDNK
まさに「記憶の冒険」というタイトルにふさわしい展覧会だった。とにもかくにも作品のすべてが、田名網敬一というアーティストの頭の中をひっくり返してごちゃ混ぜのまま画面に出したらこうなりました。とでも言うような、ごちゃ混ぜ感のオンパレードのような作品ばかりだった。
均一の細い線で描かれた独特のキャラクターは、現実感のなさという点では、マンガ化の魔夜峰央を思わせるし、オブジェのようなキャラクターのようなものが、細い線でごちゃ混ぜに描かれている様は、植芝理一を思い出させるような感じがする。どっちも順序が逆だと言われるとその通りで、どちらかというと、ふたりの方が田名網敬一の影響を受けているのではないかと思われるけど。
そして感想のタイトルにもあるように、みているうちになぜか、ジャン=ミシェル・バスキアの作品を思い出してしまった。ごちゃ混ぜ感と訳がわからない感が、バスキアを連想してしまったのだ。こっちも田名網敬一の方が早いのだけど。
バスキアと田名網敬一の接点はウォーホルくらいしかない。展覧会の開設で、ウォーホルについて触れていたからそう思ったのかもしれない。
広告や雑誌の一部をコピーしてちりばめて、そこに自分の絵を合わせる、というところは、ウォーホルの影響なのだろう。
ふたりに共通するのは、同質の製品が大量生産される時代に合って、1点ものにどれだけの価値があるのか、という問いかけから作品が生まれているところであるように思う。田名網敬一はそれに対して、自分自身の記憶をひっくり返して、大量印刷される写真やイラスト、スターシステムのような自分自身で作り出したキャラクター、そのほかの美術作品からの模写、それらを表現したいことを形にするために配置する、という作風であるように思う。
これに対して、もはや作品を残すことすら拒否して、究極の一点もの、その場限りのもので答えようとしたのが、バスキアやバンクシーの作品なのではないかな、などと勝手に考えている。
展覧会をみながら、つらつらとそんなことを考えたりしていたのだけど、さてその作品に個人として惹かれるのか、というと、うーんちょっと手を伸ばす気になれないなあ、というのが正直なところ。ちょっと年代が離れてしまっていて、感性が重ならないのかもしれない。これが植芝理一のマンガだと、同じようにオブジェが並べられていても、なんとも言えないすごみ(なのかな?)を感じるんだけど……。
にじまま
田名網氏が最後にプロデュースした田名網敬一展。奇想とサイケデリックとエロスと反骨がるつぼに入れられて爆発して色が氾濫したパワー溢れる創作の数々。コロナ禍には横尾忠則氏が100点以上の寒山拾得を制作したように田名網氏が制作したピカソのオマージュ200点ほどが一堂に展示されており圧巻であった。
びちゃ
混雑すると思ったが、全く空いていて驚いた。作品数が多いのもあるが、それ以上に作品ひとつひとつの中が混沌、カオスで情報量が多すぎて、ゆっくり見ていると全く前に進めないし、疲れてしまう。
作品には橋、金魚、戦闘機、鶏、ドクロ、女性等がコラージュで配置されている。このパターンが分かると、作品を落ち着いて?見ることができる。
幼い頃のトラウマや記憶が上記のコラージュの原点となっているらしい。
今回の展覧会を見に行くまでは、ポップアート、漫画、イラストレーション、雑多な情報誌的な構成を高齢になっても続けている元気なじいさんという印象であった。
その印象自体は間違ってはいないようだが、さらに編集者、ディレクションの優秀さが際立っていると思った。多くの情報を一つのキャンバスの中で調和、共存させる構成力はすごい。
ただ、初期のアニメーションは時代性もあるのだが、エグいし、ひどく醜い。社会がもっと混乱に向かった場合はかえって見直される可能性はあるとは思うが、今の時代の流れの中で再評価は難しい表現になっている。最後の方にあったアニメーションはテーマも表現方法も穏当で受け入れやすいのではないかと思う。もっと自由に見ることができる機会を提供して欲しい。