池田満寿夫が1997(平成9)年に亡くなって四半世紀がたとうとしています。彼の版画作品がどれほどまでに世界で評価され、また彼が芸術家としての道をどれだけ情熱的に歩んだか、今日あらためて問いかけることには大きな意味があると思われます。
池田満寿夫は1934(昭和9)年に旧満州国・奉天で生まれ、終戦の年に父母とともに長野に引き揚げました。高校を卒業後、画家を志して上京し、東京藝術大学を3回受験するも失敗。そうした頃、1955年に靉嘔(あいおう)に出会い、彼を通じて瑛九(えいきゅう)や久保貞次郎を知ることになります。瑛九はデモクラート美術家協会を創設し、大阪・東京の若き作家たちのリーダーとして大きな影響力を持つ人物でした。また久保は「創造美育」運動の主宰者であり、版画のコレクター、そして美術評論家でもありました。久保は栃木県真岡市の自邸に作家たちを集め、コレクションを囲んだ芸術談議で彼らの版画への情熱を引き出し、その活動を支えていきます。
デモクラートの作家たちは多くの人に見てもらえる版画の制作に力を入れ、瑛九から版画をすすめられた池田もデモクラートの最若手のひとりとして活動に参加しました。池田は関西を拠点とする泉茂ら版画家たちと交流を深め、自身も久保の後援により銅版画の制作に打ち込んでいきました。
戦後、国力を回復してきた日本は、初の国際現代美術展として1957(昭和32)年に第1回東京国際版画ビエンナーレ展を開催します。池田とデモクラートの多くの作家たちが同展に入選し、彼らの飛躍の一歩となりました。その後も池田をはじめ若い作家たちは版画の可能性を拓く制作活動を続け、なかでも池田の作品は1966年のヴェネチア・ビエンナーレでの版画部門国際大賞を受賞するなど国際的な評価を受けて脚光を浴びていきます。
本展では、1950年代から1966年頃までの池田満寿夫の作品とともに、池田が影響を受け、また交遊のあった作家の作品を紹介し、当時世界を席巻した日本の版画をふりかえります。