開国以来、欧米人が芸術として評価しはじめた浮世絵。かなりの数の浮世絵が海外に流出していますが、鈴木春信は特にその傾向が顕著です。神田白壁町に住んでいた、まぎれもない日本人にも関わらず、春信は日本で展覧会を開くのが最も難しい浮世絵師になってしまいました。
ボストン美術館の所蔵作品を紹介する本展、プロローグでは春信に先行する絵師が紹介されます。奥村政信、石川豊信、鳥居清広らによる、紅絵(墨版の絵に彩色)や紅摺絵(墨版に加えて紅と緑を摺る)の数々。春信による紅摺絵は貴重な作品です。
カラフルな錦絵は、陰暦のカレンダーにあたる絵暦(えごよみ)から。武家や裕福な商人などの趣味人が美しい絵暦を求め、質の高さを競う中で、多色摺木版画の技法が発達しました。絵暦の流行が終わった後、目ざとい版元は暦や依頼者の名前を削り取って印刷。錦織のように美しい絵=錦絵と名付けて販売しました。
絵暦と同様に、初期の錦絵は知的な富裕層がターゲット。春信の錦絵には教養が求められる作品が見られます。一見では当世風俗の絵ですが、その中に古典物語や故事の名場面が潜んでおり、「見立絵」「やつし絵」と呼ばれます。
プロローグ「春信を育んだ時代と初期の作品」、第1章「絵暦交換会の流行と錦絵の誕生」、第2章「絵を読む楽しみ」春信の十八番といえば、若い男女を描いた恋の図。徳川幕府が生まれて150年余り、男性には力強さより優美さが求められ、春信が描く人物は男女とも華奢でしなやか。現実的な生々しさは見当たりません。気配に気づいて振り返る娘(あるいは若衆)、まさに恋が生まれた瞬間です。
一方で、春信は江戸の人々の日常も数多く描いています。屈託なく遊ぶ子ども、幼子に衣を着せる母と、描かれているのは何気ない場面ですが、それが絵の主題になる(すなわち、買う人がいる)のは、浮世絵の特徴ともいえます。
ちなみに「江戸っ子」という言葉が初めて確認できるのも、春信が活躍した明和期です。
春信の錦絵は、明和5年(1767)頃から大衆向けに変化。江戸で評判の美人だった水茶屋「鍵屋」の娘お仙と、楊枝屋「本柳屋」の娘お藤は、たびたび春信作品の主題になっています。
両人が会いにいけるアイドル的だとすると、なかなか手が届かない雲の上の存在といえるのが、吉原の遊女。実在した吉原の遊女166名を表した豪華絵本は、鮮やかな色彩が目を引きます。
春信は明和7年(1770)に急逝。没後も春信の画風に倣った浮世絵が数多く制作されました。興味深いのが、没して20年程後の喜多川歌麿の作品。虚無僧姿の男女は春信の作品にもあり、歌麿の春信への敬意が見て取れます。
第3章「江戸の恋人たち」、第4章「日常を愛おしむ」、第5章「江戸の今を描く」、エピローグ「春信を慕う」春信が活躍したのは、約250年前の明和期(1764-72)。おのずと、後の世代の浮世絵師に比べると現存作品は少なく、出品作の中には世界で1枚あるいは2枚しか確認されていない作品もあります。
さらに作品保護の観点から、今回出品された作品は今後5年間ボストン美術館でも展示が禁止に。まさに、この機会に見ておかなければ、春信作品をまとめて見る機会はなかなか訪れないと思います。
巡回展は千葉市美術館からスタート。名古屋、大阪、福岡と巡回します。会場と会期は
こちらをご覧ください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2017年9月7日 ]■ボストン美術館浮世絵名品展 鈴木春信 に関するツイート