1886年の第8回印象派展(最後の印象派展)から始まった、新印象派の歴史。会場ではその前段としてプロローグ「1880年代の印象派」からはじまり、第1章「1886年:新印象派の誕生」へと進みます。
《セーヌ川、クールブヴォワにて》にも見られるように、ジョルジュ・スーラは純色の小さな点で現代生活を描写。スーラの試みは、記念碑的大作《グランド・ジャット島の日曜日の午後》に繋がっていきます(本展では習作が紹介されています)。
プロローグ「1880年代の印象派」と、第1章「1886年:新印象派の誕生」。動画最後がジョルジュ・スーラ《セーヌ川、クールブヴォワにて》第2章「科学との出合い - 色彩理論と点描技法」は、ユニークな試み。新印象派に欠かせない、当時の科学的なアプローチについて解説していきます。
画面に純色を並べ、鑑賞者の網膜上で色彩が混ざって見える効果を活かした点描技法。展示されているスーラとシニャックのパレットを見ても、白以外の色を混ぜなかった事は明らかです。
第2章「科学との出合い - 色彩理論と点描技法」展覧会の山場といえるのが、第3章「1887年 - 1891年:新印象派の広がり」。スーラが始めた点描による新印象派は、大きく広がっていきました。
スーラの盟友ともいえる存在が、ポール・シニャック。控えめなスーラ、陽気なシニャックと対照的でしたが、二人は強い友情で結ばれていました。シニャックの《髪を結う女、作品227》を見ると、日本美術からも影響を受けていた事が分かります。
紫色の鮮やかな服が印象的な作品は《マリア・セート、後のアンリ・ヴァン・ド・ヴェルド夫人》。テオ・ファン・レイセルベルヘは、ベルギーで新印象派を広めました。
第3章「1887年 - 1891年:新印象派の広がり」 作品は順に、ポール・シニャック《髪を結う女、作品227》、テオ・ファン・レイセルベルヘ《マリア・セート、後のアンリ・ヴァン・ド・ヴェルド夫人》第4章は「1892年 - 1894年:地中海との出合い - 新たな展開」。スーラは31歳の若さで病死してしまいますが、シニャックはクロスら新しい仲間とともに、新印象派を推し進めていきます。
アシール・ロジェの《アストル夫人の肖像》は、198x133cmという大きな肖像画。脇の机や身体の描写に比べ、表情のリアルさが印象に残ります。
第4章「1892年 - 1894年:地中海との出合い - 新たな展開」 動画最後がアシール・ロジェ《アストル夫人の肖像》最期のフロアは、第5章「1985年 - 1905年:色彩の解放」とエピローグ「フォーヴィスムの誕生へ」。1895年以降になると、シニャックらが描く絵は筆触が大きくなり、以前より自由な表現が用いられるようになります。
その流れは、さらにダイナミックな手法に発展。マティスやドランは大きな面で純色を用いた作品を制作、大胆な色使いは野獣(フォーヴ)に例えられ「フォーヴィスム」が生まれました。
第5章「1985年 - 1905年:色彩の解放」と、エピローグ「フォーヴィスムの誕生へ」オルセー美術館、メトロポリタン美術館など世界12ケ国、約60の美術館や個人コレクションから約100点が出品。あまり馴染みがない画家の作品も、印象深いものが数多くありました。
あべのハルカス美術館(大阪)からの巡回展、東京展が最後の会場となります。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2015年1月23日 ]