戦後を代表する日本画家、東山魁夷(本名:新吉)。同じく「山」の字を持つ杉山寧、髙山辰雄とともに「日展三山」、さらに加山又造と平山郁夫を加えて「五山」とも呼ばれます。
展覧会は1章「国民的風景画家」から。横浜に生まれ、神戸で育った東山魁夷。東京美術学校在学中から帝展で入選するなど非凡な資質の持ち主でしたが、終戦前後には父、母、弟が死去。空襲で自宅も失なうなど、厳しい境遇でした。ようやく《残照》で特選を得たのは、昭和22(1947)年の日展です。
2章は「北欧を描く」。《残照》と《道》で人気作家となった東山ですが、その場に留まる事を良しとせず、昭和37(1962)年に北欧の旅へ。静かな北の自然を、青を多用して表現し、「青の画家」というイメージも定着しました。
3章「古都を描く・京都」。東山に京都を描くように強く勧めていたのは、川端康成です。失われつつある古都の姿を、稀代の画家に描きとめて欲しいと願っていました。昭和43(1968)年の「京洛四季」展で、連作が発表されました。
4章は「古都を描く・ドイツ、オーストリア」。同年、東山はドイツとオーストリアへ。日本では自然を描く事が多い東山ですが、この地では人の営みに文化の蓄積を感じたのか、建物や街並みの作品を数多く残しています。
5章が注目の「唐招提寺御影堂障壁画」。鑑真の像が安置されている御影堂。視力を失いながら、6度目の挑戦で漸く来日を果たした鑑真。東山は、鑑真が見られなかった日本の風景として《山雲》と《濤声》、鑑真の出身地である《揚州薫風》、鑑真が滞在した《桂林月宵》、そして中国の代表的な景勝地《黄山暁雲》を、障壁画にしました。中国の風景は、東山が画家人生で初めて挑んだ水墨画です。
会場では御影堂内部をほぼそのままの配置で再現。特に《濤声》は圧巻で、90度に折れた角の部分を見ていると、海の中に引き込まれていくような感覚になります。
「白い馬の見える風景」も、この時期の作品。白い馬について、心の平安を保つために必然的に現れたモチーフだと、後に東山は語っています。
6章は「心を写す風景画」。障壁画を奉納した時、東山は73歳。写生に出る事は難しくなっていましたが、描いてきたスケッチなどをもとに、晩年まで制作に励みました。
5章だけでも間違いなく満足できる展覧会。雄大な世界観は、広い国立新美術館にピッタリです。現在、御影堂は大修理中のため、今後数年は現地でも見る事ができません。
東京での大規模展は10年ぶりというのも、やや意外。「今さら東山魁夷もねぇ…」という方こそ、ぜひ。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2018年10月23日 ] | | 東山魁夷の世界
東山 魁夷(著),東山 すみ(監修) 美術年鑑社 ¥ 2,057 |