梅原龍三郎は京都生まれ。地元で洋画を学び、20歳で渡仏しました。
43歳年上のルノワールは、既に国際的な名声を獲得。若い日本の画学生とは全く立場が違いましたが、梅原は幸運にも直接アトリエを訪ねる機会を得て、大いに刺激を受けました。
梅原は5年後に帰国。ルノワール訪問記を発表する事で、日本でのルノワール受容にも大きな役割を果たしています。
第1章「ルノワールとの出会い」梅原は画家としてだけではなく、蒐集家としても優れた資質を持っていました。梅原の生家は悉皆(しっかい)屋、いわば呉服のプロデュース業であり、その審美眼は幼少期からの経験に培われたものです。
帰国に際してルノワールから贈られた《バラ》をはじめ、西洋美術はマティス、ルオー、ボナール、ドガ、ピカソなどの作品を蒐集。また、紀元前25世紀から20世紀頃のキュクラデス彫刻、さらに庶民向けの絵画である大津絵も集めています。
第2章~第4章ルノワールは1919年に78歳で死去、訃報を受けた梅原は自宅まで売却して渡航費用を捻出して遺族を弔問します。
アトリエに残されていたのが、3点の《パリスの審判》。後に2点が日本に持ちこまれ、梅原はうち1点を借り受け、のびのびとした模写を描きました。会場にはルノワールによる2点と梅原による模写、計3点の《パリスの審判》が展示されています。
第5章「ルノワールの死」梅原は帰国後は西洋画に桃山美術・琳派・南画などの日本美術も取り入れて独自のスタイルを確立、大正・昭和期に日本を代表する画家として活躍しました。
会場最後は、ルノワールの作品がずらり。梅原が帰国後にルノワールについて語った訪問記が「美術館新報」に掲載されてから、来年でちょうど100年になります。
第6章「ルノワールの遺産」東京展は2017年1月9日まで。ついで、
あべのハルカス美術館に巡回します(2017年1月24日~3月26日)。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年10月18日 ]■拝啓 ルノワール先生 に関するツイート