長じては傲岸不遜な態度が目立った北大路魯山人(本名・房次郎)ですが、その生い立ちは激烈。母の不貞で出来た子どものため、誕生前に父が割腹自殺。里子に出された先では厳しい虐待も受けています。
12歳の時に京都で開かれた第4回内国勧業博覧会で、竹内栖鳳の絵に感銘を受けて芸術の道へ。当初は版下書き、看板製作、書や篆刻などを生業としていました。
魯山人の運命を変えたのが、素封家・河路豊吉との出会い。魯山人の才能を見抜いた河路のもとで豪奢な気風を身に着け、食器と美食に対する見識を深めていきました。
陶芸家としての魯山人までの道のりを辿ると、食通で目利き → 古美術商として開店 → 骨董で客に食事を提供 → 大評判になって骨董が足りない → 器も自分で創作へ、という流れです。
作陶は40歳からという遅いスタートですが、妥協を許さない性格で熱心に古陶器を研究。織部、黄瀬戸、絵瀬戸、伊賀、染付、金銀彩、色絵など、自分の美意識にかなうものは次々に取り入れていきました。
ピカソを罵倒する、有名フランス料理店にわさび醤油を持参するなど、傲慢すぎるエピソードも数多く伝わる魯山人。自らが顧問兼料理長として中心的に運営していた料亭「星岡茶寮」からも解雇されるなど敵が多い人物でしたが、芸術家としての腕は確かでした。
物資統制もあって戦時中は休んでいた作陶を、戦後に再開。米国でも展覧会を開催し、作品はMoMA(ニューヨーク近代美術館)にも所蔵されています。
1959(昭和34)年には人間国宝の打診を受けるも、辞退。民芸との軋轢など諸説ありますが、はっきりした理由は分かっていません。
「器は料理の着物」として、食と器に挑んだ魯山人。美術館なので料理をのせて出すわけにはいかないのが残念ですが、和食の奥深さをたっぷりと目で楽しめる展覧会です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年4月11日 ]■北大路魯山人の美 和食の天才 に関するツイート