洋の東西を問わず、社会が安定すると庶民文化が栄えます。日本では江戸時代に町絵師が登場し、屛風などに描かれていた風俗が浮世絵として発展していきました。
版本に描かれた風俗図は、当初は無款ばかりでしたが、いち早く名前を記したのが千葉県出身の菱川師宣。師宣は浮世絵の始祖として位置付けられます。
師宣の父・菱川吉左衛門は縫箔師でした。本展では、父が刺繍で作った《柿本人磨像》も出展されており、師宣が育った環境が伺えます。
師宣にやや遅れて活躍したのが、杉村治兵衛。丁寧な彩色が残る色っぽい枕絵組物は、特製品として描かれたと考えられます。
プロローグ「浮世の楽しみ ─ 近世初期風俗画」、第1章「菱川師宣と浮世絵の誕生 ─ 江戸自慢の時代」鳥居清信を祖とする鳥居派。鳥居派は芝居小屋の絵看板のほか、役者絵を中心に一枚絵を数多く作りました。
荒事を演じる役者を描く際に、初期鳥居派が得意としたのが瓢箪足蚯蚓描(ひょうたんあし みみずがき)。瓢箪のように誇張された筋肉と、極端に抑揚をつけた描線で、迫力あふれた表現です。
大英博物館が所蔵する《初代市川団蔵と初代大谷広次の草摺曳》は、清信と同時期に活躍した初代鳥居清倍の作品。版木も出展されており、両者が並ぶのは約半世紀ぶりです。
第2章「荒事の躍動と継承 ─ 初期鳥居派の躍動」版画の技術が進歩する一方で、逆に肉筆画を主流とする浮世絵師もいました。
懐月堂安度が率いる懐月堂派は、代表的な存在。パターン化された美人図を描く事で、肉筆画を量産していきました。
懐月堂派の活動を伺わせる興味深い資料が《浅草風俗図巻》です。浅草寺に至る仲見世通りの中に、絵を描く様子を見せる店があり、壁には懐月堂派風の美人画が掛かっています。懐月堂派はパフォーマンス性が高い絵師集団だったのかもしれません。
第3章「床の間のヴィーナス ─ 懐月堂派と立美人図」錦絵誕生以前の浮世絵師の中で、奥村政信は特筆される存在です。版元も兼ねていた政信は才気あふれる人物で、さまざまな表現を生み出しました。
この時期の浮世絵版画は、墨摺に筆で彩色を加えていましたが、政信はそれまでの「丹絵」に対し、鮮やかな紅を用いた「紅絵」を創案。江戸好みの色として、幕末まで使われました。
また、墨に膠をまぜて光沢を出した「漆絵」も制作。斜めにして見ると、今でも光沢が確認できます。
西洋画の遠近法を取り入れた「浮絵」を始めたのも政信です。極端な遠近法を用い、現在の私たちがみると辻褄があわない部分もありますが(逆にそこが魅力でもあります)、当時の人はさぞ驚いた事でしょう。
第4章「浮世絵界のトリックスター ─ 奥村政信の発信力」さらに時代が進むと、版による彩色も行われるようになります。紅と緑を中心に2~3色を版で刷ったもので、鳥居清広、石川豊信らが優美な作品を描きました。
そして、ついに鈴木春信の登場です。絵暦(年ごとに異なっていた「大小の月」を示すための暦)の交換が流行した時代。富裕層からより華やかな絵暦が求められた結果、錦のように鮮やかな「錦絵」が生まれました。
会場の最後には同じ絵が2つありますが、ひとつは私的な特製の版画(摺物)。もうひとつは依頼者の落款などを削って商品、すなわち錦絵になったもの。こうして生まれた錦絵は、後に世界を魅了していったのです。
第5章「虹色のロマンス ─ 紅摺絵から錦絵へ」この時期の浮世絵を、ここまでの規模で取り上げる展覧会は前代未聞(おそらく、この後も当分開かれないと思われます)。北斎や広重など、いわゆる「浮世絵の定番」はありませんが、浮世絵好きは見逃すわけにいきません。巡回はなし、
千葉市美術館だけでの開催です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年1月14日 ]■千葉市美術館 初期浮世絵展 に関するツイート