高田敬輔については、名古屋の文人画家・中林竹洞(ちくとう)の著書『竹洞画譜』において「蕭伯(白)・敬甫(輔)は画体いやし」と記されているとおり、奇想の画人・曽我蕭白(そが・しょうはく)と並び称される存在であり、時には蕭白の師とも言われてきました。過去の展覧会においても、こうした認識のもとに高田敬輔は紹介されてきました。
敬輔は、狩野山楽(かのう・さんらく)・狩野山雪(さんせつ)・狩野永納(えいのう)に継ぐ、京狩野(きょうがのう)の画家、狩野永敬(えいきょう)のもとで絵を学びました。師の没後は、京都の名刹・仁和寺(にんなじ)門跡に重用され、幕府のある江戸への進出もはかって中央絵師として名をあげる一方で、故郷に戻って弟子を育成しました。弟子たちの中には関東に店を持つ日野商人も含まれ、彼らがまたそれぞれの地で敬輔の画風を伝えました。下野国(現在の栃木県)の茂木(もてぎ)に店を持つ醸造業の島崎雲圃(うんぽ)、その弟子で黒羽(くろばね)藩の御用絵師となった小泉斐(こいずみ・あやる)は、その代表格と言えましょう。
本展覧会では、山雪・永敬ら京狩野の画人たちから敬輔へ、また敬輔から雲圃、斐へと続く流れを、敬輔との関連で注目される画僧・古■(こかん・■は石へんに間)や、門下の月岡雪鼎(せってい)や、曾我蕭白らの作品も交えながらたどります。近江出身の一絵師が中央で活躍し、再び地方に回帰してゆく姿を浮かび上がらせると同時に、関東とネットワークをもつ近江商人が、小泉斐や江戸文人サークルの育成に果たした役割をも明らかにしたいと思います。