髙島野十郎(本名・彌壽 やじゅ)は、福岡県久留米市生まれ。生家は裕福な酒造業でした。
東京帝国大学農学部水産学科に進学し、卒業時は首席。帝大生にとって最高の名誉である、天皇からの「恩賜の銀時計」授与の候補になりますが、辞退して画道に入った変わり種です。
小さな絵画グループに参加していた事もありますが、画業の大半は独立独歩。後に欧州に渡りますが、現地でも日本人画家との交流を好まず、ひたすら古画の研究と写生に没頭しました。
第1章「初期作品 理想に燃えて」 第2章「渡欧期 心軽やかな異国体験」帰国後は一時郷里に戻った後、再び上京して青山に居住。きっちり2年毎に個展を開催するなど、制作活動は旺盛でした。
会場で最も多く展示されているのが、風景画。ひとり身だった野十郎はしばしば旅に出かけ、各地で風景画を描きました。
《雨 法隆寺塔》は、いわくつきの作品。盗まれて4年もの間、湿度の高い床下に。戻った後に今度は火事に遭って損傷しますが、2度の修復を終えて展示されています。
カンバスの裏面にも塗料を塗り、堅牢性を高めていた野十郎。「自分の作品は1000年大丈夫」と豪語してい蛸とが、この作品で実証された事になります。
第3章「風景 旅する画家」 《雨 法隆寺塔》は動画最後の左側静物画も野十郎が得意としていたジャンルです。リンゴやブドウなどの果実、菊・バラなどの花卉を、卓上静物画として何枚も描ました。
1974年の個展に出品された《からすうり》も、ここで展示されています。カラスウリは戦前から描いていた得意の画題ですが、その総決算ともいえる作品。時が止まったかのような描写は、シャルダンを思わせます。
第4章「静物 小さな宇宙」野十郎の真骨頂といえるのが、最終章の「光と闇 太陽 月 蠟燭」。野十郎は仏教への関心が強く、作品と仏教の関連がしばしば指摘されますが、光を描いた作品には特にその傾向が現れます。
野十郎は晩年に千葉県柏市に移って以降、月の作品を多く手がけました。最初は風景も描いていましたが、次第に満月だけに。月の周辺の光を見事にとらえ、月と自分の間の空気を描ききっています。
第5章「光と闇 太陽 月 蠟燭」蠟燭の作品は会場後半です。蠟燭の炎を用いた絵画ならジョルジュ・ラ・トゥールなど多数ありますが、野十郎の絵は蠟燭と炎のみです。
小さな蠟燭の絵に囲まれた展示室は、実に神秘的。蠟燭の作品は40点ほど確認されていますが、友人や知人に贈られたものばかりです。
さらに会場の最後には、1~5章の作品が数点ずつ展示されるダイジェスト的なコーナーがあります。レイアウトの都合もあると思いますが、展覧会全体を1室で復習できるのは効果的な試みです。
第5章「光と闇 太陽 月 蠟燭」野十郎が注目され出したのは、1980年に福岡県文化会館(現
福岡県立美術館)で開かれた「近代洋画と福岡県」展から。著名作家の作品とともに出品された、野十郎の《すいれんの池》に注目が集まり、6年後に同館で初の回顧展が開催。さらに2年後に東京(
目黒区美術館)でも開催されて、その名はすっかり全国区となりました。
展覧会は
福岡県立美術館からスタートし、
目黒区美術館で2館目。次いで
足利市立美術館、九州芸文館と巡回します。日程は
こちらでご確認ください。[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年4月12日 ] | | 髙島野十郎
高島 野十郎 (著) 東京美術 ¥ 2,500 |
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