明治の日本美術を整理すると、まず日本画などの伝統美術は、当初は守旧的と批判されたもののフェノロサと岡倉天心が再興。ナショナリズムの萌芽にあわせ、逆に洋画への風あたりが強まった、という図式になります。
「西洋画の普及」に向け、ひと世代前の
五姓田義松らや、脂派(やには)の浅井忠らが模索する中、最終的な勝者といえるのが黒田清輝です。黒田の歩みは日本の洋画にアカデミズムを築き、保守本流の大河となりました。
薩摩藩士の子として生まれた黒田。養父は戊辰戦争で功を挙げ、新政府でも要職を努めた人物です。黒田は法律を学んで「えらくなる」ため、18歳になる1884年にフランスに留学します。
会場は初期の作品などからフランスで洋画家の山本芳翠らと出会った事が、黒田の運命を変えました。画才を称賛された黒田は画家への転身を決め、ラファエル・コランに師事します。
コランはアカデミーの系譜ながら、印象派など当時の最新技術も積極的に取り入れていた画家。屋外の明るい裸婦像などに、その手腕を発揮していました。
留学中の黒田の集大成といえるのが《読書》です。本格的に絵を学びはじめてわずか3年ですが、早くもこの作品で目標としていた「サロンでの入選」を達成しました。会場では師・コランの作品と同じエリアで展示されています。
ラファエル・コランの作品と、留学中にサロン入選を果たした《読書》展覧会には、黒田が学んだ同時代のフランス近代絵画も展示されています。
コランがそうであったように、当時のフランス絵画はアカデミズムに外光表現を取り入れる画家が増加。また自然を表す風景画や、人々の生活を描いた風俗画も流行し、農村を描いたバルビゾン派のミレーには、黒田も共感していました。
公共建築の壁画を得意としたシャヴァンヌにも関心を寄せていた黒田。アトリエを訪ねて、サロンに出す絵を見てもらった事もあります。
黒田が学んだ同時代のフランス近代絵画黒田は1893年に帰国。少し前(1887年)に帰国した
原田直次郎も、西洋画を受け入れない国内の風潮に落胆しますが、黒田の西洋画も簡単に受け入れられたわけではありませんでした。
大きな問題となり、かつよく知られているのが「裸体画論争」。西洋画において裸婦は定番ですが、パリのサロンで入選した女性裸体画《朝妝》を国内で展示したところ「醜画」「風俗を乱す」と批判の的に。1901年に出展した別の裸婦像《裸体婦人像》は、当局が裸体画の一部(下半身)を覆うという「腰巻事件」がおこりました。公衆の面前に裸の女性を示すのは、絵画といえども許されなかったのです。
黒田の作品で最も良く知られているのが、重要文化財《湖畔》です。モデルは後に妻となった照子で、箱根の芦ノ湖畔で描かれました。湖と同系色の浴衣で爽やかにまとめられています。
重要文化財《湖畔》や、物議を醸した裸体図のコーナーなど黒田の作品は、戦災で失われたものも少なくありません。
前述の裸体画《朝妝》や大作の《昔語り》は住友家の須磨別邸に飾られましたが、空襲で焼失。会場には原寸大のパネルが展示され、往時の姿を感じる事ができます。
東京駅帝室用玄関(現在の東京駅丸の内中央口)に、黒田が手がけた唯一の壁画があった事はあまり知られていないかもしれません。鉄道院の依頼で制作されたもので、「山の幸」「海の幸」を現代風に解釈し、鉱業・林業や運輸・造船などに従事する人の姿を描きました。こちらも空襲で焼失しています。
会場の最後は、重要文化財《智・感・情》。裸婦像は世俗的な裸体とは異なる事を、理想化されたプロポーションで示しました。1900年のパリ万博に出品され、日本人の洋画では最高賞となりました。
焼失した《昔語り》や《東京駅帝室用玄関壁画》もパネルで展示。展示室最後は、重要文化財《智・感・情》官制公募展(文展)を創設、帝国美術院院長に就き、貴族院議員にもなるなど、政治的にも成功した黒田。判官贔屓もあって「いまさら黒田清輝?」と、やや斜に構えていましたが、通してみると表現者としての技術は凄まじいほど(あたり前ですが)。特に《昔語り》の画稿は舌を巻くほどです。
1924年に58歳で死去した黒田は、遺産の一部を美術の奨励事業にあてるように遺言し、設立されたのが帝国美術院附属美術研究所、現在の黒田記念館です。記念館では黒田の主要作品を常設展示しており、建物そのものも国の登録有形文化財に指定されている美しい建築です(本展開催中は休館です)。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年3月22日 ]■生誕150年 黒田清輝 に関するツイート