日本語では「高級婦人仕立服(業)」と訳されるオートクチュール。あまり知られていませんが、オートクチュールはフランス国内の制度です。パリ・クチュール組合は「アトリエには最低20人の従業員」「一回のコレクションで最低75点提示」などのルールを定めており、これを満たさないとオートクチュールを名乗る事は許されません。
オートクチュールの基礎を作ったのは、イギリス生まれのシャルル=フレデリック・ウォルト(1825-1895)。パリに渡ったウォルトは1885年に女性向け既製服の店を開店。季節ごとに新作コレクションを発表、今でいうファッションモデルを起用して顧客の前で披露する、など現在につながるスタイルを生み出しました。
1~2章展覧会にはパリ・モードの殿堂であるガリエラ宮パリ市立モード美術館が所蔵する作品から、選ばれた逸品が来日。布の保存には神経をつかう事もあり、これほど大規模なオートクチュール展の開催は極めて異例です。
一番大きな展示室で展示されている「第3章 贅沢なエレガンス」は、
三菱一号館美術館としては珍しく撮影可能(フラッシュ、三脚、セルフィースティックの利用は不可)。30年代を紹介するこの章では、狂乱の時代を経て再び丈が長くなったドレスなどが紹介されています。
3章会場構成はほぼ時代順。オートクチュールの誕生から現在までを通史で辿ります。
戦争によって物資が不足した40年代には、オートクチュールにも関わらず安価な素材も利用。50年代にはクリスチャン・ディオールが様々なラインのドレスを発表し、一斉を風靡しました。また、この時代はファッション写真も隆盛、ヴォーグ誌などを通じモードを牽引していきます。
60年代に入るとクレージュやウンガロなど、新しい世代のクチュリエ(オートクチュールのデザイナー)が活躍を始めますが、ファッションを取り巻く環境は大きく変容。モードの中心は徐々にプレタポルテ(高級既製服)に移っていく事となります。
4~7章オートクチュールのメゾン(店)は、1940年代には100以上ありましたが、現在は僅か14。ピンクの羽毛が舞う美しいドレスは、バレンシアガが最後のショー(1967年)で発表した作品。ティオールとともに戦後のパリ・モードを牽引したバレンシアガの撤退は、象徴的な出来事でもありました。
ちょっと面白いのが、一番最後の小さな展示室で紹介されている写真。写真家のフランソワ・コラールが、クチュリエや職人の手をアップで撮影しました。とても華やかなオートクチュールの世界ですが、支えているのは職人たちによる最高峰の技術です。
8章展覧会は2013年にパリ市庁舎の聖ヨハネ・ホールで開催された「パリ・オートクチュール」展を日本向けに再構成したもの。前述のように極めて痛みやすい作品もあり、最後にご紹介したバレンシアガのピンクのドレスなどは、おそらく二度と海外への出品は適わないと言われています。
女子なら誰でもため息が出る事も違いなしの、うっとりするようなオートクチュールの世界。
三菱一号館美術館の雰囲気にもピッタリあっています。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年3月3日 ]■三菱一号館美術館 オートクチュール に関するツイート