昨年、
東京ステーションギャラリーなど各地を巡回した「
『月映(つくはえ)』 田中恭吉・藤森静雄・恩地孝四郎」展も記憶に新しい、恩地孝四郎。恩地だけに焦点をあてた展覧会は20年ぶり3回目。
東京国立近代美術館に限ると、1976年の「恩地孝四郎と『月映』」展以来、実に40年ぶりの開催となります。
第1章は「『月映』に始まる 1909-1924年」。1909年、18歳の恩地は、私淑していた竹久夢二と親密な交友関係を結びました。夢二の「誌のような画」に共感した恩地は、心の内側から湧き出る表現を追及していきます。
1914年には田中・藤森とともに、詩画集『月映』を制作。公刊『月映』Ⅴに掲載された《抒情『あかるい時』》は、後に日本で最初の抽象表現と評されました。
《抒情『あかるい時』》の版木を良く見ると、雲母(きら)の輝きが。版画は機械刷りと手刷りが並んで展示されており、手刷りの方は雲母摺(きらずり)が確認できます。
第1章「『月映』に始まる 1909-1924年」第2章は「版画・都市・メディア 1924-1945年」。人間のからだを分解・簡略化したような「人体考察」シリーズは、この時期の作品です。
1942年には、若い頃から親交を結んだ詩人の萩原朔太郎と北原白秋が相次いで死去。リアルな表現の肖像が展示されていますが、油彩画ではなくこれも木版画です。
戦時色が強まる中、日本版画奉公会が発足すると恩地は理事長に。各地で慰問版画展を開催するほか、大東亜会議に参列した代表の肖像なども手掛けています。
第2章「版画・都市・メディア 1924-1945年」第3章は「抽象への方途 1945-1955年」。社会情勢が激変しますが、恩地は幸運にも創作版画を収集するGHQ関係者の庇護を受ける事となります。
戦後の恩地は、ほぼ抽象一本。この時期の作品は海外での高評価を受け、国外のミュージアムが良品を所蔵しています。実は長い間、日本で回顧展が開催できなかったのもこのため。今回は大英博物館・シカゴ美術館・ボストン美術館・ホノルル美術館という名だたる美術館の協力を得て、海外所蔵作品が62点も出展されています。
戦後の恩地は、布切れや紙ひもなど、身のまわりのものを直接に版として用いた「版を彫らない版画」にも挑戦。サンパウロ・ビエンナーレで作品を発表するなど、精力的に活動を続けました。
第3章「抽象への方途 1945-1955年」小品の版画が主体という事はありますが、出展作品は約400点という膨大さ。動線も長く、見応えたっぷりです。ゆっくりとお時間をとって、お楽しみください。
東京展は2月いっぱい。続いて4月29日(金・祝)~6月12日(日)に、
和歌山県立近代美術館に巡回します。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年1月12日 ]■恩地孝四郎展 に関するツイート