数多くの大久保利通関連資料を所蔵している
国立歴史民俗博物館。今年はさらに大久保家から新資料が寄贈されました。
活字化されて紹介される機会が多い大久保の史料ですが、本展には直筆の書簡などがずらり。ナマの資料から、困難な時代に誠実に向き合った大久保の想いを感じてほしい、と企画されました。
会場は書簡が中心ではありますが、一部には実際に使用した品々の展示も。「内務卿大久保利通印」と彫られた印鑑や(大久保は内務省で日本の近代化政策を強力に推進しました)、豪華な木製の執務机(今年寄贈されたものです)などが目を惹きます。
書簡が中心の会場ですが、実際に使用した品々の展示も写真嫌いだった西郷隆盛とは逆で、大久保を写した写真はいくつも残っています。ただ、和服姿は1点のみ(1868(明治元)年頃とされます)。この写真もこのたび寄贈されたものです。
岩倉使節団として1872(明治4)年から欧米を歴訪した大久保。立派な髭はこの時期に蓄えられた事も、写真から分かります。
今回の展覧会では、この間の時代の写真が判明しました。1871(明治4)年頃の写真と思われ、洋装で帯刀姿です。
大久保を写した写真は数多く残ります大久保のイメージといえば、冷静・孤高。確かに冗談を言うタイプではなく、内務省に出勤した時は省内が静まり返ったといわれているので、仕事の面ではイメージ通りの人物といえます。
ただ、家庭での素顔は意外なほど普通。子どもは8男1女に恵まれ(うち正妻の子は4男1女)、妾腹の子も分け隔てなく育てました。
囲碁が趣味だった大久保。島津久光に近づくために碁を習ったとされていた事もありますが、それ以前から碁を打っていた事が判明しており、現在ではこの説は否定されています。また大のタバコ好きで、煙管を昼用と夜用で分けていたと伝わります。
家庭での大久保は意外なほど普通でした大久保利通が暗殺されたのは、1878(明治11)年5月14日。馬車に乗る時は護身用に短銃を持っていましたが、その日は持っておらず、島田一郎ら不平士族6名による襲撃を防ぐ事はできませんでした。暗殺時に持っていた書簡には、今でも血痕がくっきりと残ります。維新の元勲の急死は世間に大きな衝撃を与え、タイムズ紙でも報じられています。
勲章姿の大久保利通肖像は、キヨソネが描いたもの。青山霊園にある大久保利通の墓は、三条実美による揮毫です。
暗殺時に持っていた書簡など鹿児島県は西郷贔屓が強い事もあり、県内に大久保の銅像が建てられたのは没後100年を経た1979(昭和54)年。イメージで損をしている印象がありますが、日本の近代化は大久保の存在なくしてはあり得なかったのは事実です。
会場に用意されている子供向けのクイズ用紙は、やや難問もありますので、大人もチャレンジしてみてください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2015年10月5日 ]