舟越保武は岩手生まれ。東京美術学校(現・東京藝術大学)時代には、同級だった佐藤忠良らとともに、練馬のアトリエ付き長屋に住んでいました。
後に石彫の作家として知られるようになった舟越が初めて石の彫刻を作ったのも練馬で、その作品《隕石》から展覧会は始まります。
戦時中は郷里に疎開しますが、長男が幼くして病死するという悲運も。その影響もあり、家族全員でカトリックの洗礼を受けました。会場には、亡くなったばかりの長男を描いたスケッチも展示されています。
第1章「彫刻への憧れ ── 東京美術学校受験の頃から 1933年~1943年頃まで」 / 第2章「模索と拡充 ── 戦後 1945年頃~1958年頃まで」
2階に進むと、舟越の作品で最も良く知られている《長崎26殉教者記念像》が登場します。
豊臣秀吉の命令によって長崎で処刑された、26人のカトリック信者を現した作品。晴れ着を着て合掌しながら、やや上方を見上げ、足の甲が正面を向いているのは、昇天する姿を作ったためです。素描はポーズが異なるものもあり、綿密な検討のプロセスが見てとれます。
第3章「《長崎26殉教者記念像》 1958年頃~1962年まで」
その後も充実した創作を続けた舟越。《長崎26殉教者記念像》の序幕式の後に「島原の乱」の戦地である原城址を訪れ、迫害されたキリシタンに思いを馳せて作ったのが《原の城》です。この像は、ローマ法王に献上されています。
同じ頃に構想を進めていたのが《ダミアン神父》。自ら望んでハンセン病の患者と接し、病に侵されながら神の言葉を伝え続けたハワイの司祭を、病気が進んだ姿で制作しました。
この時期には、大理石による整った面立ちの女性頭像も数多く作っています。《原の城》《ダミアン神父》とは真逆ともいえる、包み込むような優しさが印象的です。
第4章「信仰と彫刻 ── 《原の城》・《ダミアン神父》の頃 1962年~1975年頃まで」
練馬展のメインビジュアルが《聖クララ》。イタリア・アッシジの聖フランチェスコ寺院を舟越が訪れた時、雨宿りで見たひとりの若い修道女がモデルとされています。
ただ、舟越の作品は、モデルの姿は記憶に残すのみ。モデルを前にしての制作は行いません。記憶の中の像を理想化して表現する事で、舟越の不変的な想いが形になっているのです。
第5章「静謐の美 ── 聖女たち 1975年~1986年頃まで」
1987年、脳梗塞で倒れた舟越。右半身が不自由になりますが、入院中から左手でデッサンを初め(もちろん従来は右利きでした)、退院後は車椅子で彫像の制作を再開。1998年まで、毎年彫刻作品を発表し続けました。
左手での作品は、荒々しい仕上がりながらも、ボリュームの捉え方は巧みで、削ぎ落とされた凄味すら感じるものばかり。次男で同じく彫刻家の舟越桂氏は「ああ、この作品を作るために父は倒れたのだ。ここへ行くためには、右手の自由を失うことが必要だったのだ」と、図録に記しています。
第6章「左手による彫刻 ── 最後の出品作品まで 1987年~1998年まで」
2002年に舟越保武は90歳で死去。亡くなった2月5日は、「日本26聖人」が長崎で殉教した、まさにその日でした。
全国巡回の本展。岩手県立美術館、郡山市立美術館と進み、練馬区立美術館が最後の会場です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2015年8月18日 ]