横浜・本牧の広大な庭園「三溪園」を創設した原三溪。展覧会は「コレクター」「茶人」「アーティスト」「パトロン」という4つの側面から、文化人としての原三溪の全容に迫る企画です。
原三溪は岐阜生まれ。父は戸長や村長を務めた有力者、母は南画家の娘で、学問や文化に恵まれた環境で育ちました。
上京後、生糸業で成功した横浜の原善三郎の孫娘と結婚。原家の家督を継ぎ、事業を拡大させていきます。
三溪は独自の歴史観にもとづき、積極的に古美術品を収集しました。生家の影響からか、初期は文人画など。後に仏教美術や茶の湯道具と幅を広げていきました。
コレクターとして三溪の名が広く知れ渡るようになったのは、国宝《孔雀明王像》の収集です。前蔵相・井上馨から当時としては破格の1万円で購入し、大きな話題となりました。
その後も次々に名品を収集。その活動を総括するため、所蔵名品選「三溪帖」を刊行すべく準備を進めましたが、出版を目前にして関東大震災で焼失してしまいました。
残された「三溪帖」の草稿を見ると、コレクションを体系的に分類していました。自身の解釈で、美術史上の位置づけを試みていた事も分かります。
三溪は大正時代に入ると、益田鈍翁や高橋箒庵ら、実業家で数寄者でもあった人々と交流を深め、自らも茶の湯の世界に入っていきました。
茶室「蓮華院」を設けて、何度も茶会を開催。関東大震災後、古美術の収集を控える中でも、茶道具の購入は続けています。
三溪には、自ら書画を制作するアーティストとしての一面もあります。文人画風の作品は、前田青邨らにも絶賛れるほどの腕前でしたが、最も優れた作品といえるのが三溪園。広大な土地に日本庭園を設計し、古建築を移転させてつくりあげました。
ただ、三溪園は空襲で一部の建物が倒壊。修理工事を経て、現在は国指定名勝になっています。
三溪が同時代の美術家を本格的に支援するようになったのは、明治40年代に入ってから。生活費や研究費の支給、作品の購入などとともに、自らのコレクションを美術家に見せたり、制作する場所も支援しました。
前田青邨《神輿振》、横山大観《柳蔭》などは、三溪園で描かれたものです。
出品作品の現在の所蔵先を見ると、東京国立博物館、京都国立博物館、東京国立近代美術館、大和文華館、畠山記念館などなど。他の展覧会では目玉として出展されていた作品も、いくつも見られます。改めて、すべて原三溪が所有していたのかと思うと、驚愕の一言です。
デリケートな日本画が多い事もあり、かなり頻繁に展示替えがあります。再来場割引も実施されているので、ご活用ください。詳しくは公式サイトで。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2019年7月15日 ]