1925(大正14)年、東京・小石川の光円寺に生まれた不染鉄。20代前半で日本美術院研究会員になりました。この頃の作品は輪郭をぼかした朦朧体など、日本美術院の影響が感じられます。
次第に行き詰まるようになり、写生旅行に行った伊豆大島・式根島で漁師として3年過ごすという、変わった経歴を持っています。
1918年に京都市立絵画専門学校に入学すると、翌年には第1回帝展で初入選。学校も首席で卒業するなど、才能は抜きんでていました。
展覧会は5章構成。第1章「郷愁の家」と第2章「憧憬の山水」は戦前の作品で、詩情あふれる農村や、各地で目にした風景画などを描く一方、南画への関心も高く、水墨山水図も手掛けています。
第1章「郷愁の家」、第2章「憧憬の山水」戦後、不染は奈良の正強高等学校(現・奈良大学付属高等学校)の校長になり、没するまで奈良で過ごしました。
奈良で好んで描いたのが、薬師寺東塔などの仏教建築をモチーフにした作品。写生ではなく、自らの内にある情景と組み合わせて、印象的な風景を描きあげています。
富士山も、不染が好んで描いた画題です。展覧会メインビジュアルの《山海図絵(伊豆の追憶)》は、186×210cmの大作。全体は俯瞰した構図でありながら、よく見ると陸にはのどかな家々、海には魚や波が接近したかのように緻密に描き込まれ、二つの異なる視点が相まった不思議な作品です。
第3章「聖なる塔・富士」妻が亡くなると、さらに画業に没頭するようになった不染。漁師として過ごした日々が蘇って、この時期は数多くの海の絵を描きました。
晩年には地元の美術団体の展覧会のほか個展でも作品を発表。絵画だけでなく、奈良の伝統工芸である赤膚焼に絵付けをしたり、奈良人形一刀彫の作家と共同で木彫作品を制作したりと、活動の幅を広げています。
会場の終盤で目をひくのが、数多くの絵葉書。緻密な絵とともに、小さな文字で日々の出来事や芸術に対する思いがびっちりと書かれています。
第4章「孤高の海」、第5章「回想の風景」晩年に住んだあばら家の室内は、箪笥の内側からマッチ箱まで絵が描き尽くされていたという不染。1976年に84歳で亡くなる直前まで、絵筆を取り続けたそうです。
不染の回顧展は21年前に奈良県立美術館で開催されただけで、今回が2回目。その画業が東京で紹介されるのは初めてです。本展は東京展の後、奈良県立美術館に巡回します。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2017年6月30日 ] | | 東京美術館案内
昭文社 旅行ガイドブック 編集部 (編集) 昭文社 ¥ 1,296 |
■不染鉄 に関するツイート