少し前の住宅には必ずあった、床の間。貴族や武士、豪商などの座敷にあった床の間は、明治以降に庶民の住宅に広まり、来客を迎えるためにふさわしい、床の間に飾る絵画が求められました。
かつて住友の邸宅を飾った日本画とその取り合わせを中心に紹介しながら「床の間芸術」を考えていく展覧会が、泉屋博古館東京ではじまりました。
泉屋博古館東京「特別企画展 日本画の棲み家」会場入口
展覧会は第1章「邸宅の日本画」から。住友の邸宅に飾られていた書画と、その取り合わせが並びます。
住友家第15代の住友吉左衛門友純(1864~1926、号・春翠)が大正4年に本邸を移した茶臼山には10以上も床の間があり、それぞれ、趣向を凝らした作品が飾られていました。
今尾景年の《富士峰図》は、威風堂々とした富士を墨の濃淡で描いた作品です。富士は「不死」「無事」に通じることから、長寿を寿ぐ縁起物とされました。
(奥)今尾景年《富士峰図》明治後期〜大正時代 泉屋博古館東京 / (手前)《白玉香炉・香瓶・合子》中国・清時代 泉屋博古館
木島櫻谷《雪中梅花》は、来賓の際に茶臼山本邸表書院の次の間を飾った作品です。梅は厳しい寒さの中でいち早く花が開き、数多くの実をつけることから吉祥の花とされてきました。
作者の木島櫻谷は、前述の今尾景年の門弟です。写生を基調に情趣あふれる作風で、官展の花形作家として活躍しました。
木島櫻谷《雪中梅花》大正7年 泉屋博古館東京
狩野芳崖の《寿老人図》は、玄鹿、松竹梅、鶴などの吉祥モチーフが盛りだくさん。蝙蝠(コウモリ)も中国では「蝠」と「福」が同音のため縁起のよい柄です。
こちらは、茶臼山本邸の表書院の床の間を飾ったと思われる、とても大きな作品です。
(奥)狩野芳崖《寿老人図》明治10年代後半頃 泉屋博古館東京 / 《白玉共蓋香炉》中国・清時代 泉屋博古館
第2章は「床映えする日本画」。もともと貴族や武士、豪商などの座敷に設えられていた床の間が、庶民に普及したのは明治以降です。接客空間である床の間に「映える」日本画を、考えていきます。
そのひとつが、吉祥性が高い画題。日本では七福神の一人である寿老人は、古くから延年長寿の吉祥画題として広く親しまれてきました。
尾竹竹坡《寿老図》明治45年頃 泉屋博古館東京
座敷で行われてきた家族の行事(年中行事・通過儀礼)などに関連する作品も、床の間には欠かせません。
派手なピンク色の裂地が目に鮮やかな《神雛之図》は、桃の節句に掛けられる紙雛の節句画。作者の上田耕甫は、大坂四条派の絵師・上田耕冲の子で、「船場の画家」として端麗な花鳥画を得意としました。
(左手前)上田耕甫《神雛之図》昭和6年 泉屋博古館東京
第3章「『床の間芸術』を考える」は、泉屋博古館東京としては珍しい試み。「新しい床の間芸術」をテーマに、今を生きる6名の作家が制作した作品です。
澁澤星(1983-)の作品は、掛軸や屛風を思わせるしつらえに、人物を含む絵画で構成。手前に調度品も組み合わせて、空間を構成しました。
澁澤星《Water》2023年 作家蔵
長澤耕平(1985-)の《森の夜》は、暗い森に生い茂る樹木を、精密に描写した四連作。写真では分かりづらいですが、近寄って見ると緻密な表現に目を奪われます。まさに「床の間での鑑賞」に相応しい作品ともいえそうです。
長澤耕平《森の夜》2023年 作家蔵
最後の第4章は「住友と床の間」。長い歴史を有する住友。ここでは住友史料館に伝わる歴史資料から、住友銅吹所(鰻谷本邸)で実際に設えられた座敷飾りの様子などが紹介されています。
別子銅山(愛媛県新居浜市)は、住友家の家業の基盤でした。開坑100年を過ぎた1790年頃から一種の神格視が広がり、丹羽桃渓による《別子銅山図》は天保4年から安政4年にかけて、計49回も掛けられたことが分かっています。
賛:太田南畝 画:丹羽桃渓《別子銅山図》江戸時代後期 泉屋博古館
現在、床の間がある家で暮らしている人はどのくらいいるでしょうか。戦後になると生活スタイルも大きくかわり、特に都市部では、家の中で床の間を見る事は珍しくなりました。
家から床の間がなくなったという事は、暮らしの中で美に触れる機会が減ったともいえます。それに変わるのがスマホなら、少し寂しく思います。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2023年11月1日 ]