昭和から平成にかけて活躍した洋画家、麻生三郎(1913-2000)。空襲で豊島区長崎のアトリエを失い、1948年に世田谷区三軒茶屋に転居。戦後復興期の代表作をこの地で描きました。
麻生が三軒茶屋時代に描いた油彩や素描のほか、麻生が強く惹かれて作品を蒐集した、20世紀アメリカを代表する社会派の画家、ベン・シャーン(1898-1969)の作品をあわせて紹介する展覧会が、世田谷美術館で開催中です。
世田谷美術館「麻生三郎展 三軒茶屋の頃、そしてベン・シャーン」会場
展覧会は第1章「アンゴラ兎と家鴨(アヒル)のいる画室」から。麻生三郎は現在の東京都中央区生まれ。太平洋美術学校で学び、渡欧の後に豊島区長崎で活動するも、戦災でアトリエと作品のほとんどを失いました。
転居した三軒茶屋は、アトリエと台所、居室がひとつほどの簡素な家。麻生一家はウサギなどを飼って生活し、その模様は当時の雑誌が「アンゴラ兎と家鴨のいる画室」という見出しと、土門拳による写真で紹介しています。
この時期の麻生は、戦時下からつづくテーマとして妻や娘の肖像をくり返し描写。抱き合うふたりの人物で、人間の孤独を象徴的に描いた《ひとり》は、麻生の代表作のひとつです。
(左から)麻生三郎《裸A》1950年 東京都現代美術館 / 麻生三郎《ひとり》1951年 個人蔵
第2章は「赤い空」。1950年代半ばから、麻生のまなざしは、アトリエから外の世界へと向けられていきました。
繰り返し描かれた《赤い空》など、人間と街の風景が多く描かれるようになります。
(左から)麻生三郎《赤い空》1956年 東京国立近代美術館 / 麻生三郎《赤い空》1955年 個人蔵
三軒茶屋時代の1950年代初めから1970年代初めにかけて、麻生は書籍の挿画や装丁の分野で多くの仕事を残しています。
さまざまな文学者や評論家と交流。野間宏、椎名麟三、井上光晴、芹沢光治良など、戦後活躍した文学者たちの作品を担当しました。
「挿画・装丁の仕事(1)」
第3章は「死者と燃える人」。1960年に麻生は自宅を改築。この頃、安保闘争が勃発し、デモに参加していた女学生の死に、麻生は強い衝撃を受けました。
《仰向けの人》と《死者》は、その死を悼んで描いた作品です。それまでの作品とは大きく異なり、横たわる人を上から見下ろすような構図で、人体はところどころで崩壊しています。
(左から)麻生三郎《死者》1961年 神奈川県立近代美術館 / 麻生三郎《仰向けの人》1961年 東京国立近代美術館
第4章は「生田へ」。1969年にアトリエの間近で首都高速道路と地下鉄の建設がはじまると、制作環境が悪化。麻生は1972年に川崎市の生田に転居します。
3点の連作《ある群像》は三軒茶屋時代の最後の頃に描きました。泥沼化するベトナム戦争に対する思いを込めた作品で、人間像を解体する表現はピークを迎えました。
(左から)麻生三郎《としより》1969年 大川美術館 / 麻生三郎《ある群像》1967年 神奈川県立近代美術館 / 麻生三郎《ある群像3》1970年 神奈川県立近代美術館 / 麻生三郎《ある群像2》1968年 神奈川県立近代美術館
麻生は、雑誌の仕事も手がけています。『帖面』は、印刷会社が自社のPR誌として刊行した季刊誌で、麻生は1958年の創刊から企画編集に関わりました。
月刊『囲碁クラブ』は、1958年から1961年までの4年間にわたり、麻生が表紙画を担当。季節の風物のほか、三軒茶屋近辺や都内でスケッチした風景を、墨と淡彩で描いています。
「挿画・装丁の仕事(2)」
ベン・シャーン(1898-1969)は、20世紀アメリカ美術を代表する画家です。麻生は三軒茶屋時代に作品に接して傾倒し、長年かけて作品を蒐集していきました。
同時代の社会問題に関心を寄せて作品に投影したベン・シャーンの姿は、麻生の創作スタイルと一致します。
(左から)ベン・シャーン《松葉杖の女》1940-42年 神奈川県立近代美術館 / ベン・シャーン《砂あらし》1935年 神奈川県立近代美術館
麻生の生誕110年を記念した本展。時代と対峙した創作の軌跡をお楽しみください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2023年4月20日 ]