今から約2000年前、ローマ帝国の植民市として繁栄していたポンペイ。西暦79年のある朝、街の北西にあるヴェスヴィオ山が大噴火し、すべてが埋没してしまいました。
ポンペイ出土の膨大な遺物を収蔵するナポリ国立考古学博物館が全面的に協力し、モザイク画やフレスコ画、彫像、工芸品など多彩な優品を紹介する展覧会が、東京国立博物館で開催中です。
東京国立博物館 特別展「ポンペイ」会場入口
会場は、序章「ヴェスヴィオ山噴火とポンペイ埋没」の迫力あふれる映像から。ポンペイでは果物が盛んに栽培され、ワインやオリーブ油が特産品。噴火は何世紀も起こっていませんでした。
なお、噴火の日付は諸説ありますが、現在は10月24日が有力視されています。
序章「ヴェスヴィオ山噴火とポンペイ埋没」
第1章は「ポンペイの街 ─ 公共建築と宗教」。当時のポンペイの人口は、約1万人。他の古代ローマの都市と同様に、フォルム(中央広場)、劇場、円形闘技場、浴場、運動場などの公共施設がありました。
また、ポンペイでは多くの神々が祀られていました。この章ではアポロ、ウェヌス、イシスなど神々に関する作品も紹介されています。
第1章「ポンペイの街 ─ 公共建築と宗教」
第2章は「ポンペイの社会と人々の活躍」。ポンペイは貧富の差が激しい格差社会でしたが、階層は古代社会にしては流動的。金を支払うことなどで奴隷身分から解放されて、富裕層にまで上昇する人もいました。
また、女性も活躍できる社会でした。選挙権こそなかったものの、社会的な影響力を持つ女性はいました。
《エウマキア像》は、ポンペイの毛織物業の組合が、業界の保護者であるエウマキアを顕彰するために設置した彫像。裕福な女性が積極的に活躍し、市内で力を持っていたことを示しています。
第2章「ポンペイの社会と人々の活躍」 《エウマキア像》1世紀初頭 ナポリ国立考古学博物館
第3章は「人々の暮らし ─ 食と仕事」。ポンペイの日常生活を示す台所用品や食器類、そして医療用具、画材、農具、工具など、ポンペイの住民が使っていた仕事道具が展示されています。
ポンペイには街中にパン屋やテイクアウト可能な料理屋があり、手軽に食事をとることができました。
第3章「人々の暮らし ─ 食と仕事」 調理具と食器類
第4章「ポンペイ繁栄の歴史」では、ポンペイの繁栄を示す3軒の邸宅が紹介されていきます。
「ファウヌスの家」は、ポンペイ最大の邸宅。壁面の多くはストゥッコ(化粧漆喰)で立体的に装飾され、床はヘレニズム美術の粋を極めた細密技法のモザイクです。建設は前180〜前170年頃。ローマ化以前のポンペイの豊かさを現代に伝えています。
第4章「ポンペイ繁栄の歴史」 「ファウヌスの家」
「竪琴奏者の家」は、ポンペイでも指折りの有力な家族であったポピディウス家が所有したと考えられる大邸宅です。
中庭(ペリステュリウム)の一つにはイオニア式円柱が巡り、中央には細長い人口の池と、ブロンズの動物像で飾られた噴水がありました。何度か改装されており、ローマのもとでの繁栄を示す邸宅です。
第4章「ポンペイ繁栄の歴史」 「竪琴奏者の家」
「悲劇詩人の家」は、天窓のある広間(アトリウム)を中心とした伝統的な住宅。前の二つの家に比べて規模は小さいものの、噴火直前に描かれた何枚もの神話画が、ギャラリーのように邸内を彩っていました。
また、玄関には「CAVE CANEM(猛犬注意)」と書かれた犬のモザイクもあります。
第4章「ポンペイ繁栄の歴史」 「悲劇詩人の家」
第5章は「発掘のいま、むかし」。かつて遺跡の発掘は、美術品を獲得する「宝探し」でしたが、現在では厳密に管理されて慎重な発掘調査が行われています。
「キケロ荘」は、ポンペイで最初に発掘された建築物のひとつです。会場では、大トリクリニウム(食堂)の壁面を彩っていた壁画の断片とともに、全体を実物大で復元して紹介しています。
第5章「発掘のいま、むかし」
同じように火山を多く持つ国として興味を引くのか、日本では1967年以降、ポンペイを主題にした展覧会がたびたび開かれています。
今回の展覧会も、東京を皮切りに京都、宮城、九州と全国を巡回。各地で大きな注目を集めそうです。会場内は個人利用に限り、全作品写真撮影もOKです。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2022年1月13日 ]