京都府出身の画家、津田青楓(1880-1978)。98歳という長寿で、洋画、日本画、執筆、書など多彩な分野で活躍した青楓の最初期の仕事が図案でした。
「図案の変革期」といえる明治から大正時代の図案に着目し、青楓の作品をはじめ、約250点というボリュームでさまざまな作品・資料を紹介する展覧会が、渋谷区立松濤美術館で開催中です。
松濤美術館「津田青楓 図案と、時代と、」会場入口
展覧会は3章構成で、第1章「青楓図案万華鏡」から。青楓が最初の図案集を出したのは、何と16歳のとき。当時人気だった神坂雪佳の図案を見て、自分にも描けると筆をとりました。
生家近くの本屋の主人が気に入って、なんと10円でお買い上げ。当時ひと月生活するのに充分な金額だったといいますから、その天賦の才が良く分かります。
第1章「青楓図案万華鏡」会場風景 津田青楓による装幀 ©Rieko Takahashi
明治29年から渡欧する前年の明治39年までに、青楓は13タイトル、34冊の図案集と、6冊の雑誌を刊行しました。
『青もみぢ』は明治32~34年に6巻を刊行されています。全ての図案に青楓の印が入り、青楓の作品であることが意識されています。
津田青楓『青もみぢ』本田雲錦堂 明治32(1899)年8月~明治34(1901)年1月 山田俊幸氏 ©Rieko Takahashi
鈴木三重吉の全作集では、全13巻のうち10巻の装幀を青楓が手掛けています。
美しいデザインは目を引きますが、青楓は三重吉に「くどくど云はれることに耐へられなくなり」、その仕事から離れてしまいました。
津田青楓(装幀) 鈴木三重吉『三重吉全作集』春陽堂 大正4~5(1915~1916)年 笛吹市青楓美術館
第2章は「青楓と京都図案」。長い間、工芸の生産と消費、双方の中心地だった京都ですが、幕末の開国と明治維新の動乱、そして東京遷都により、大きな打撃を受けました。
低迷からの立ち直りを図って力を注いだのが、産業や工芸の近代化でした。
(壁面 左から)岸竹堂(下絵)《縮緬地波に雲龍文様型友禅染裂》明治12(1879)年 株式会社千總 / 岸竹堂(下絵)《縮緬地萩の玉川文様型友禅染裂》明治16(1883)年 株式会社千總 / 今尾景年(下絵)《縮緬地几帳に鷹文様型友禅染裂》明治24(1891)年 株式会社千總
明治37年、青楓は図案の研究会「小美術会」を結成。会の機関紙として『小美術』を刊行しました。
『小美術』の名前は「純粋美術を大美術、応用美術を小美術」と西洋人が言っていたことから名付けたといいます。
津田青楓『小美術図譜』山田芸艸堂 明治37(1904)年9月 芸艸堂 ©Rieko Takahashi
浅井忠は、明治初期洋画界を代表する人物のひとりです。フランスへの留学後、京都に移住し、新設された京都高等工芸学校の教授に迎え入れられました。
浅井は図案科の図案実習と色染科の自在画を担当。図案の基礎は絵画にあるとして、デッサンや水彩画を教えています。
浅井忠(図案)杉林古香(制作)《大津絵銘々皿》明治後期 京都国立近代美術館
第3章は「青楓と新しい試み」。青楓は明治40年に農商務省海外実業練習生としてパリに留学。本格的に洋画を学んで3年後に帰国しますが、洋画だけでなく生活を彩る「小芸術」(マイナーアート)も積極的に手がけました。
青楓は、橋口五葉に続いて夏目漱石の装幀を担当しています。五葉のようなアール・ヌーヴォーではなく、自刻自版の版画や更紗模様を多用するなど、自由な感覚で制作しました。
(上から)橋口五葉(装幀) 夏目漱石『草合』 春陽堂 明治41(1908)年 山田俊幸氏 / 津田青楓(装幀) 夏目漱石『草合』(縮刷) 春陽堂 明治41(1908)年 山田俊幸氏
青楓は大正2年に青楓図案社を設立。デザインや販売まで自分で指揮をとり、封筒や便箋、巻きタバコ入れなどを販売しました。
青楓が晩年に作成したと思われるスクラップブックには、青楓図案社の便箋の下絵のほか、夏目漱石『三四郎』『それから』の装幀など、さまざまな装幀やカットが貼り込まれています。
津田青楓《装幀かっと見本摺張込》制作年不詳 個人蔵 ©Rieko Takahashi
津田青楓といえば、小林多喜二の拷問死の年に描かれた《犠牲者》(東京国立近代美術館蔵)をご存じの方が多いと思います。《犠牲者》も出展された「生誕140年記念 背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和」展(2020年 練馬区立美術館)は、このコーナーでもご紹介しました。
出展数は約250点と、ボリュームたっぷりの企画展です。会期の途中で一部の作品が展示替えされます。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2022年6月17日 ]