江戸時代からの浮世絵版画に倣って、絵師、彫師、摺師が分業で作った「新版画」。大正から昭和にかけて制作され、伊東深水や川瀬巴水などが有名ですが、フランス生まれながら独自のスタイルで活躍した絵師がいました。
南洋やアジアで暮らす人々を描いた新版画を続々と刊行したポール・ジャクレー(1896-1960)の作品を、太田記念美術館で紹介する展覧会。全点が展示替えされて、7月1日(土)から後期展がスタートしました。
太田記念美術館「ポール・ジャクレー フランス人が挑んだ新版画」会場
ポール・ジャクレーはパリ生まれ。父親がお雇い外国人として赴任したことから3歳で来日し、38歳から新版画を刊行し始めました。
絵画では若くて美しい女性がモデルになることが多いですが、ジャクレーの作品は男女を問わず、また、子どもから老人まで描いているのは特徴のひとつといえます。
ポール・ジャクレー《鯉を売る老婆、茨城県水郷(『世界風俗版画集 第一輯』)》昭和9年(1934)7月4日 (c) ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2023 E5060
ジャクレーは昭和4年(1929)から昭和7年(1932)まで、サイパン島やヤップ島、トラック島、セレベス島など、ミクロネシアの島々に毎年滞在しました。
当時のミクロネシアの島々は、日本の委任統治領。ジャクレーは生まれつき病弱で、渡航の主目的は療養でしたが、島民たちの珍しい風俗は、後のジャクレーの創作に繋がりました。
(左から)ポール・ジャクレー《波の音、東カロリン群島》昭和11年(1936)4月22日 (c) ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2023 E5060 / ポール・ジャクレー《めざめ、サイパン、マリアナ群島》昭和12年(1937)3月12日 (c) ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2023 E5060
南洋の人々を描いた作品(58点)で知られるジャクレーですが、次いで多いのが朝鮮の作品(37点)。中国・満洲(25点)はおろか、日本(24点)より多い37点の作品を残しています。
ジャクレーは父の没後、母が日本人の医師と再婚してソウルに転居。ジャクレーは母に会うため、何度もソウルに通っていました。さらに、ジャクレーの助手にも朝鮮出身者がいたことから、ジャクレーにとって朝鮮は身近な存在だったのかも知れません。
ポール・ジャクレー《北漢山、京城、朝鮮》昭和12年(1937)12月6日 (c) ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2023 E5060
展覧会の中ほどには、ジャクレー自慢の傑作が登場します、
「満州宮廷の王女たち」全5点は、刺繍の美しさを再現するため、良質な和紙と木材を準備して制作。特筆すべきはその摺りの多さで、最多で223度摺り、最少でも113度摺りです。
ジャクレー自身もこのシリーズに強い思い入れがあり、これこそが自分の実現したいものであったと述べています。
ポール・ジャクレー《愛妾、連作「満州宮廷の王女たち」より》昭和17年(1942)4月15日 (c) ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2023 E5060
ポール・ジャクレーは、昭和19年(1944)6月に軽井沢に疎開。戦後も亡くなるまで軽井沢で生活し、版画を制作しました。
ジャクレーの作品は進駐してきた米軍関係者からの人気が高く、摺師を軽井沢に住まわせて制作するほどでした。
軽井沢時代は色合いも変化しており、ビビットな色彩が目にとまります。
ポール・ジャクレー《待つ身、メナド、セレベス島》昭和22年(1947)9月15日
ジャクレーは昭和29年(1954)、58歳になっても新たな作品制作に向けて海外旅行に出発するなど、晩年になっても制作意欲は衰えませんでした。
昭和35年(1960)1月には「悲劇女優、満洲」と「舞姫、ソウル、韓国」を刊行。ただ、これがジャクレーの最後の作品となりました。
その2カ月後の昭和35年3月9日、糖尿病のため軽井沢で永眠。享年64歳でした。
(左から)ポール・ジャクレー《黒い蓮華、中国》昭和34年(1959)4月 / ポール・ジャクレー《舞姫、ソウル、韓国》昭和35年(1960)1月
首都圏ではじめて、ジャクレーの全作品(162点)を紹介する展覧会です(前後期あわせて)。彫りや摺りが異なる作品も展示されているので、作品の変遷もあわせてお楽しみいただけます。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2023年6月30日 ]