江戸後期を代表する浮世絵師のひとり、歌川国芳(1797~1861)。国芳は多くの弟子を育てましたが、ほぼ同時期に入門し、後に良きライバルとして人気を二分したのが落合芳幾(1833~1904)と月岡芳年(1839~1892)でした。
明治に新しいメディアが登場し、従来の浮世絵が衰退するなか「最後の浮世絵師」世代として奮闘した両者の作品を紹介する展覧会が、三菱一号館美術館で開催中です。
三菱一号館美術館「芳幾・芳年 ― 国芳門下の2大ライバル」会場
ともに江戸に生まれた芳幾と芳年。年齢は芳幾のほうが6歳上ですが、入門は1年違いで、芳幾は17-18歳、芳年は12歳でした。
多感な10代を同門で過ごした両者は、門下を代表する有望な兄弟弟子として、切磋琢磨していきました。
(左から)芳年《ま組火消の図》明治12年(1879)赤坂氷川神社 / 芳幾・四代鳥居清忠《吃又》看板絵(芳幾)明治27年(1894)《文覚》看板絵(四代鳥居清忠)早稲田大学演劇博物館
ふたりが入門した時、師の国芳は50歳代前半です。体制批判ともとれる自由な風刺画を描き、奉行所からも目をつけられる存在でした。
親分気質だった国芳。人気が高かった歌川派のなかでもとりわけ門人が多く、そのなかで両者は頭角を現していきました。
(左から)国芳《浮世よしづくし》嘉永(1848-53)頃 浅井コレクション / 国芳《当世流行見立》天保10年(1839)頃 浅井コレクション
同じ歌川派の絵師で「豊国にかほ(似顔) 国芳むしや(武者) 広重めいしよ(名所)」と評されるなど、武者絵を得意にしていた国芳。弟子のふたりも、国芳の正統な継承者としてスタートしています。
国芳は、豊臣秀吉の時代の武将を描いた《太平記英勇伝》を出版。その作風をかなり忠実に引き継ぎ、芳幾も《太平記英勇伝》を出版しました。会期中に100点全点が展示されます(前後期で展示替え)。
芳幾《太平記英勇伝》慶応3年(1867)浅井コレクション
一方の芳年も、武者を得意にしていました。《芳年武者旡類》は明治16年から4年の歳月をかけて出版した大作で、神話の時代から戦国時代までの武者を描いています。
主役は後ろ向きだったり顔が半分隠れていたりと、表情に頼らずに画面を成立させており、芳年ならではのデザインセンスが光ります。
(左から)芳年《芳年武者旡類 相模守北條高塒》明治16年(1883)頃 浅井コレクション / 芳年《芳年武者旡類 相模次郎平将門》明治16年(1883)頃 浅井コレクション
版元、彫師、摺師との協業により世に出るのが浮世絵版画に対し、絵師が自らの手で描くのが肉筆画です。芳幾・芳年ともに多くの肉筆画を描いていますが、残念ながら制作の事情が判然とする作品は多くありません。
第3章「肉筆画」
開国で新しい技術が広まると、浮世絵版画は急速に衰退していきます。伝統的な浮世絵師にとっては厳しい時代になりますが、芳幾や芳年らのように、最後まで活動を続けた人たちもいました。
豊原国周は「明治の写楽」と称されて人気を博した絵師です。《高貴肖像》では明治天皇を役者絵のように描いています。
(左)豊原国周《高貴肖像》明治18年(1885)浅井コレクション
明治5年(1872)、芳幾は戯作者の條野採菊らとともに東京初の日刊紙「東京日日新聞」を発刊。後に、美談や奇譚、煽情的・猟奇的な記事に、芳幾が錦絵を描いた《東京日々新聞》大錦も刊行されました。
《東京日々新聞》大錦は、一般大衆の関心を集めて成功。同様の新聞が次々に発刊され、「郵便報知新聞」の新聞錦絵には芳年が起用されています。
(左から)芳幾《東京日々新聞 千四十五号》明治8年(1875)8月 毎日新聞社 新屋文庫 / 芳幾《東京日々新聞 九百五十一号》毎日新聞社 新屋文庫
《月百姿》は、芳年が画業の最後に手掛けた大判錦絵100図の揃物です。完成目前に芳年は亡くなりますが、後に目録と序文を添えた画帖として刊行されました。
月にちなんだ光景にさまざまな時代の人々が描かれており、芳年芸術の頂点といえる作品群です。
エピローグ「月百姿」
国芳が没した時、師の死絵を描いたのは芳幾。弟子の筆頭といえる立場でしたが、晩年は事業が失敗し、生活は困窮するなど不遇をかこいました。一方の芳年も神経衰弱を患うなど病気に苦しみ、53歳で死去しています。それでも、最後まで絵筆を手放さなかった2人の浮世絵師の生き様を、本展でご覧いただけます。
本展をもって三菱一号館美術館は設備入替および建物メンテナンスのため休館となります。再開館は2024年秋頃の予定です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2023年2月24日 ]